法を作るのは国民であって、国会議員も公務員も基本的には国民の奉仕者だという感覚 | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

立法府である国会が国権の最高機関だと憲法に書かれていることは多くの人が承知されていることだと思う。

さて、なぜ国会が国権の最高機関だと位置付けられているのか、ということの意味合いを考えていただきたい。
私は、国民主権のもとに議会制民主主義を採るわが国において、法の権威はすべて国民に由来するからだと思っている。

国体というものに最高の権威を認める国体主義者がおられるが、それは戦前に特有の独特の観念で、戦後の日本社会や国際社会では通用しない独自の議論だろうと思っている。

国民に基礎を置き、国民に由来し、国民のために存在するから日本の司法、立法、行政はそれぞれに権威を取得し、機能する、というのが私の感覚である。

法を作るのは国民だという感覚があるのかどうか、ということが問題だと思う。

私は、自分の実感として、法は変わるものだし変えられるものだ、と実感している。
行政府にいたときは、既存の法律体系をそのまま受け入れ、その円滑な遂行のために私なりに全力を尽くしたつもりだ。
この時の私は、既成の法律の当て嵌め、すなわち既にある法律の解釈や解説のその道のプロの一人になる。

弁護士になってからも基本はそう変わらない。
司法の世界において、既存の法律体系をそのまま受け入れて、様々な既存の法律や規則等を縦横に駆使し、これに条理というスパイスをかけて、自分の依頼者の権利・利益を擁護し、これを実現しようと様々に工夫する。
これも既成の法律の当て嵌めの作業であり、ある意味で法律実務家として法律の解釈や解説をしていることになる。
もっとも、一人ひとりの弁護士の法律の解釈や法の当て嵌め作業には権威性が伴っていないので、裁判所がこれを採用しない時は、独自の主張に終わることになる。
言ってみれば、弁護士の主張は、しばしば相手方や裁判所を説得するためだけに行われていると言っていいだろう。

国会議員になって初めて分かったのは、法は変えられる、ということだ。
国会議員になって分かったのは、既存の法律体系には結構穴があり、整合性を欠いていたり、不備・欠缺・尻抜けが多いということだった。

これは司法、行政、立法のすべての分野で言えることである。

私は、法律や規則さらには行政の運用等は、社会情勢の変化や国民の通念の変化に対応し、必要に応じて適宜適切に変えていかなければならないものだ、という確信を持つに至っている。

この感覚を共有する人とならいくらでも議論が出来るが、さて、行政府にどっぷり浸かっている人にはお分かりになるだろうか。