実は人は皆、それぞれ何らかの障害を抱えております。
ですから、健常者と障害者の二分法を鵜呑みにはしない方がいい、と私は思っております。
歳を取ることも、病を抱えていることも、さらには家庭内で悩みを抱えていることも、お金が無いことも、皆、そうでない方々と較べれば、ある意味でハンディ、すなわち障害を抱えていることになります。
障害者は、別に特別の人ではない。
障害のある人は、聖である。
私の友人で、マホロバ、マホロニー運動を展開していた故・長谷川泰造弁護士がそう言っていたことを思い出しました。
私たちは、障害のある人たちから多くを学ぶ。
障害のある人たちが、色々なことを教えてくれる。
障害のある人は、聖だ。
彼は、そう叫んでおりました。
裁判員制度についての裁判所の広報のあり方について、障害を持っておられるだろうと思われる方のコメントを読ませていただきました。
実に、回転が早い。
私たちが気が付かなかったことを的確に指摘されている。
しかも、見事に議論を積み上げておられる。
いささか感情的なやり取りも途中混じっておりましたが、多分それだけ議論が理詰めで、逃げを許さないような厳しいところがあったからでしょう。
読ませていただきながら、息が詰まるような思いがしておりました。
幸い、お互いに相手の方の立ち位置が見えてきたようで、ここであまり突き詰めた論争をしてもプラスにならないかな、と思われたようで、全体のトーンが聞きやすくなりました。
障害を持っておられる方とそうでない方とが、こんな風に、本音に近いことを遠慮なくぶつけ合って議論する。
凄いことです。
私は、今までこんなことを見たことがありませんでした。
コメントを寄せられている方は、おそらく聴力障害を有しておられる方だと思います。
インターネットを使えば、こんな風に議論が出来る。
こんな風に、懸命に努力されている方がおられる。
そして、障害のある自分たちを不当に裁判員の候補から除外しないようにと懸命に訴えられている。
ひょっとしたら私の方に誤解があるかも知れませんが、私はそんなことに感激しました。
まだ私自身、本当には障害のある方々とどう向き合っていったら分からないところがありますが、自分の勝手な思い込みで障害のある方々を不当に差別したり、名誉を傷つけることのないよう注意したい。
そう、思っております。
皆さんもどうぞよろしく。