『MEMORIES L’ECAILLER DU PALAIS ROYAL(BRUSSEL)』 | グルヒロのすすめ

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『MEMORIES  L’ECAILLER DU PALAIS ROYAL(BRUSSEL)』

その年、1991年の1月1日から9月19日までにグルヒロが食べたフランス料理店を順に列記すると『フロ表参道』、『ヴァンセーヌ』、『カストール』、『ル・トゥーカン』、『オー・ベルジーヌ』、『ロン・ポワン』、『イゾルテ』、『レ・シュー』、『モンプレヴォ―』、『アマポーラ』、『ブラッセリ―・ベルナール』、『カンセイ』、『ローズ・ルーム』、『オー・ベルジーヌ』、『ジョエル』、『ラ・クロワゼット』、『フォーグレイン』、『ナージュ』、『レカミエ』、『ル・シャルル―』、『馮』、『クラブNYX』、『カーエム』、『プティ・ポワン』、『オー・プティ・パリ』、『ラ・プロムナード』、『オテル・ド・ミクニ』、『ラ・マレ』、『ビストロ・ラ・ポスト』、『ヒラマツ』、『ラ・プリムール』、『パストラル』、『ラ・ドデュ・ダーンド』、『ラ・ブランシュ』、『ル・シェフ・メシャン』、『ラブレー』、『ル・マエストロ』、『コート・ドール』、『アンブローシア』、『クィーン・アリス』、『ボンファム』、『ル・トリアノン』、『ボーセジュール』、『ビストロ・サンノー』、『イル・ド・フランス』、『イッシン』、『オー・シザーブル』、『シェ・麻里お』、『パッション』、『ロア・ラ・ブッシュ』、『シュ・シュ』、『アピシウス』、『ラ・オランジェリー・ド・パリ』、『ラ・ベルド・ジュール』、『ペリィニヨン』、『ラ・ベルエポック』、『オーベルジュ・ドゥ・ムートン・ブラン』、『あたごおる』、『オー・バトー・イーヴル』、『ロア・ラ・ブッシュ』、『ラ・ロシェル』、『パラッツィオ』、『龍土軒』、『シュノンソー』、『オー・ベルジーヌ』、『レザンジュ』、『マキシム・ド・パリ』、『ル・マンジュ・トゥ』、『ラ・ベル・ド・ジュール』、『シェ・フィガロ』、『パストラル』、『パストラル』、『ラ・テーブル・ド・コンマ』、『シェ・フィガロ』、『シェ・フィガロ』、『ラ・ベル・ド・ジュール』、『イル・ド・フランス』、『シェ・フィガロ』、『パストラル』、『ラ・ベル・ド・ジュール』、『アラン・シャペル』、『ジャン・ムーラン』、『レ・シャンドール』、『アナベル』、『レ・シャンドール』、『ヒラマツ』、『アンリ―』、『ラブレー』、『アンリ―』、『ラ・マレ』、『パ・マル・レストラン』、『サバス』、『イゾルデ』、『レカン』、『パッション』、『ラ・ブランシュ』、『ビストロ・サンマルタン』、『北島亭』、『ヒラマツ』、『コート・ドール』、『クラブNYX』、『クラブNYX』、『オランジェリー・ド・パリ』、『ル・マエストロ』、『あたごおる』、『オー・シザーブル』、『ラ・ベカス』、『シェ・ワダ』、『シャンボール』、『ビストロ・ヴァンサンク』、『パストラル』、『クィーン・アリス』、『ラ・トゥール・ダルジャン』、『パ・マル・レストラン』、『ミレイユ』、『ラ・ベル・ド・ジュール』、『あたごおる』、『ラ・クロワゼット』、『あたごおる』、『マダム・トキ』、『ラ・テーブル・ド・コンマ』、『龍土軒』、『パ・マル・レストラン』、『クレソン』、『モンペリエ』、『モンペリエ』、『ジャン・ムーラン』、『レストラン・ミチノ』、『ラ・ベル・ド・ジュール』、『ラ・ベル・ド・ジュール』、『カーエム』、『イル・ド・フランス』、『北島亭』、『ラ・クロワゼット』、『ル・トゥーカン』、『パストラル』、『コート・ドール』、『ビストロ・ド・ラ・シテ』、『ビストロ・ド・ラ・シテ』、『プティ・ポワン』、『クィーン・アリス』の計144回東京と関西で食事をした。いま振り返ればアッという間の9か月間だった。ここで改めて1991年度の手帳を確認してみた。するとああ、こんな店があったなあ、ウーンこんな店も行ったなあ、と回想する大半の店は閉じてしまった。

フランスに一度も行ったことのない人間が仕事でもないのに日々のようにフランス料理を食べ歩いた。だからこの年の5月に山本益博さんと出会ったときに「どうしてこんなにフランス料理を食べているんですか?それにこれだけフランス料理を食べていて、どうしてフランスに出かけて食べないんですか?」とどうして?なぜ?と疑問だらけの不思議な顔をしていた料理評論家の山本さんを今でも思い出す。

イギリスの登山家が「なぜ、山に登るのか?」という質問に「そこに山があるからだ」と答えた話があるけれど、グルヒロからすれば「そこにレストランがあるからだ」、と答えるのが普通だったかもしれないけれど、山本さんのなぜ?質問まで、とくに深く考えていなかった。まあ、いつかはフランスに出かけて三ツ星料理を食べてみたいものだ、と漠然と考えていたようだ。しかし遠いフランスまで家から旅支度をしてわざわざ出かけるのが面倒であった。

「僕も一緒に行きますから、ぜひフランスに行きましょう!」と本気の山本さんに後押しされて、自分では「そうだね、本場の料理を食べないと何がフランス料理なのか、何が本物はなのかなんて分からないよなあ、😥」と思いはじめた。それはフランス観光旅行ではなく、フランス料理を食べるためのフランスまで出かける旅行を決断した。

フランスでレストランする七面倒な星印店への予約は山本さんが入れてくれた。またホテル宿泊や航空券などは山本さんからの紹介で旅行会社の担当者がすべて行ってくれた。山本さんとはグルヒロ夫婦がはじめに到着する国、ベルギーのブリュッセル市内にある、当時はまだ権威があったミシュランの三ツ星レストラン「COMME CHEZ SOI」で一緒に食事をしましょう、ということで山本さんとはブリュッセル到着2日後にその店で落ち合うことにしていた。だからブリュッセル到着の翌日、最初のフランス料理はグルヒロが持参した1991年度版ミシュラン・ヨーロッパ を開いて、偶然見つけたブリュッセル市内の二ツ星レストラン「L’ECAILLER DU PALAIS ROYAL」でランチすることにした。

初秋を思わせる素晴らしい快晴日だったけれど、当時は予約をしたのに飛行機に搭乗しない人を減らすためにリコンファームという「予約再確認」という面倒なシステムがあって、飛行機に搭乗する意思があることを航空会社に再度伝える確認を自身で取らなくてはならなかった。仕方がないので市内から航空会社に電話を入れて帰国便の再確認をした。さあ、これで思い残すことなく料理が食べられる。

緑豊かなブリュッセル公園をのんびり散歩しながら、事前予約は店に直接出向いて昼の予約を入れた。さてフランスではないけれど隣国でフランス料理を初めて食べることになった。

2時間後、店に入ると給仕人は我々夫婦を見て外のテーブル席に案内した。晴天の日は外の席から埋まっていくという、日本とは異なる見事なサービスぶりであった。それから給仕人から手渡されたメニューを読んで、ワインリストから冷えたアルザスのRieslingで一息つくことにした。それでメニューをよく読むとこの店は魚料理専門店であることが分かった。メニューの初めにHUITRES(牡蠣)とあり、給仕人が生牡蠣の盛合せを最初に食べないか?と言ってきた。日本でも牡蠣は食べているから特に興味はなかったけれど、給仕人がブルターニュ地方でとれる丸い形のブロン牡蠣を見せてくれた。少し体調のことを考えて生牡蠣だけれど、あたることなど考えず店を信用して美味い本場ものを食べることにした。6個入の盛合せでやや弾力のある歯ごたえとほんのりとした甘みのブロン牡蠣は白ワインとよく合った。

ひめじのソテー、オマール海老のラヴィオリ・カレー風味、まとう鯛のポアレと香草野菜添え、どの料理も塩味が強くソースも濃厚だが、目の覚めるような旨さである。桃とイチジクのコンポートを食べた後に、リンゴのタルト、ブルーベリーのタルトを食べた。果物の焼菓子は生のフルーツを味わう以上の美味さで、一人前の量も日本とは比べられない半端ではないボリュームであったが、そこには完食できる美味しさがあった。そして締めくくりに小菓子付きのエスプレッソ・コーヒーをじっくりと味わった。ミシュラン2ツ星の実力を舌と頭の中で大いに感じた。そして明日からのフランス料理旅行が本当に楽しみとなった。

冒頭で書いたけれどこのブリュッセルにやって来るまでこの年は、計144回の食事をしていた。何も自慢にもならない話をわざわざ書いたのは、日本で食べた144回どの料理も美味しかったけれど、異国の地で食した本物料理はまるで違った。濃さが違う、香りが違う、すべてが異なる。

でも本場で食べる料理よりも美味しい料理を作る日本人シェフは存在する。日本で食べる日本のフランス料理を決して非難する気持ちなどないけれど、その大半はフランスもどき料理であった。いや、料理に独創的料理などはなく、誰かが過去に見出した料理を再現しているだけではあるが。

だから数年後も食事後に料理人から「きょうの料理はどうでしたか?」とよく聞かれたけれど、その大半はもちろん美味しかった。個人的な意見で物足りない感想を述べることもあったけれど、それ以上のことは答えられなかった。それは繰り返しになるけれど、濃さが違う、香りが違う、すべてが異なる。別に例えてみると英語が達者な日本人と外国人とはすべてが異なるように。努力しても超えられないものがあるのではないか。