阪神▪淡路大震災 | 約束の場所

約束の場所

生まれつきの視える人





前日の空をとてもよく覚えていて
確か雲っていたと思うんですけど

なんだろうなぁ…

遊びに出かけたのに
今でも不思議なんですけど
めちゃくちゃテンション低くなっちゃって
すぐに無言というか、具合悪いと勘違い
される様な態度になっちゃって
結局、早々に帰宅をしました。

確か、午後3時には家にいたかな。
母親から「え?どうしたの!?」と心配されて
特に理由も本当になくて、返答に困った記憶。

あの、「テンション低くて帰宅する」は、
火災事件のあった日、早く帰宅した時から2度目


当時、私は妹と同じ部屋で
部屋も狭かったから、本棚にしていた
カラーボックスも上に積んでいたし
ドレッサー、机も2つにタンス
家具に囲まれて眠っていました。


そして、5:46


まず、聞いた事のない
ゴォォォォと言う音で目が覚めました。

そして次の瞬間、強烈な縦揺れがはじまりました。
妹の学習机が、机の上に本棚がついているタイプで
背が高くとても重くて。。
運ぶ時も大人二人がかりでした。
そんな机が、天井にぶつかって、床に戻って
また天井にぶつかってと
本当にシェイクされてるみたいになっていて
その光景が理解できませんでした。

その次に、雷が落ちたみたいに空が光って
昼間みたいに一瞬明るくなったので

私はこれは戦争が起きたのだと
その時は本気で、爆弾が落ちたんだと思いました。

すると、今度は激しい横ゆれがはじまりました。

逃げようとしたけれど、それはもはや無理な話で
立ち上がる事すら、起き上がる事すら
できませんでした。

次に横揺れがきて、まずカラーボックスが倒れ
机が、向かい合わせにおいていた机に倒れて
めり込み

次にドレッサーが割れて
鏡の破片が宙を舞うように振ってきました。

その時に、恐怖で
叫び声をあげたんですけど

凄い轟音で、かき消され
その自分の叫び声すら耳に全く届かなくて
何故かとてもそれがショックでした

ショックって言うのは
人生で初めてその時
「あぁ、私は死ぬかもしれない」と
思った瞬間だったからなのかもしれません


よく、そんな時に
スローモーションになるって聞いたりした事が
あったんですけど

本当にスローモーションになったなぁ。。

今でも、あの鏡の破片が目の前に
落ちてくるゆっくりな景色を一番
覚えていたりします

揺れがおさまり、父親から地震だと
言われてはじめて、これが地震なのかと
やっと理解をしました。

当時はネットがなくて、ラジオの情報も
最初はそんなに被害はないって内容で

だから、夜が明けてきて
当時は5階に住んでいたんですけど

ベランダからみた神戸方面が
川を隔てた向こう岸が火の海になっていて

はじめてそこで、これは大災害だと
認識をしました。

私の住む場所は市のちょうど境で
その境に川が流れているんですけど
川を境に本当に申し訳ないほどに別世界すぎて

ある程度日にちが経過し
被害が大きかった隣の市住みの友人に会った時には
川を渡ると何でこんなに違うのかと
言われてしまうほどでした




ライフラインが全滅して
まず困ったのがトイレでした。

今なら情報や、知識がありますが
当時はそれが全くなくて

大きな施設ならトイレも使えるかも?
と言う浅い考えで、近所にある総合病院に
行ってみました。

すると、病院は大変な事になっていて
怪我をした人がどんどん運びこまれていて
病室が足りないから、廊下の床に
沢山の患者さんが溢れていました


トイレに行くとここも同様に
水が止まっていて、勿論使えなくて
言葉に出来ないくらい、ひどい状態になっていました。


申し訳ない気持ちになって、早々に家に戻ると
母親がバケツの水を
勢いよく流すと流れるらしいと
オカンネットワークで情報を仕入れたらしく
お風呂の溜め水で実践していました。

でも、これもいつか尽きてしまう……

飲み水、お風呂、トイレ、皿洗い、歯を磨いて口をゆすぐこと、いつも当たり前に蛇口から出てきていた水

あぁ水ってこんなに大事なものだったんだと
その時本当に学びました

一度だけ自衛隊の給水車がきたけれど
目の前で無くなって結局もらえなくて

もらえなかったどうしよう……と、困っていると
オカンが両手のバケツに水を汲んで帰ってきました

「◯◯の奥さんに教えてもらったんやけど、ちょっと遠いけど、ほら、あそこの公園あるやろ。あの公園の蛇口生きとったで!」

そのオカンネットワークでは
お皿にラップを巻いて使うと洗わなくていい
等の、知恵の情報を教わったらしく
早速実践しましたけど

その時に、知恵の凄さを学びました。

あとはオカン達の逞しさかな
コミュニケーションの大切さも


だから、これからもあの日の事は忘れない。