追記 | 和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

グリデン・ワズミの歌舞伎劇評

〔四季三葉草〕

呪文を唱え、荘重に国家安穏、五穀豊穣の舞を舞う「翁」のそれを、軽妙洒脱な仕科を持って、「もどいて」みせるのが「三番叟」本来の踊りなのだから、「揉の段」や「鈴の段」などを「三番叟」ただ一人で、もっとじっくりと踊ってほしかった。「千歳」をからませての踊りで幕となるが、これでは形容の綺麗さはあっても、「三番叟物」独特の祝福性を著しく希薄にしてしまう。「振り付け」にひと工夫を、と願っておく。

 

〔毛抜〕

染五郎は実に芝居のうまい役者だが、この狂言を復活させた二代目左団次を念頭におくと、やはり「大らかさ」が足りない。厳しくいえば、「武骨物の愛嬌」という点でも物足りない。「俺は閻魔と兄弟だ」などという台詞にしても、そうした雰囲気がもっと大袈裟に表出されなければ少しも面白くないのである。

弥十郎の「八剣玄蕃」にはもう少し「立敵」らしい憎々しさがほしい。

松也の「秀太郎」は、予想以上の収穫。若衆らしい色気と柔らかさが漂っている。

意外にも梅枝の「巻絹」には古風な若々しさが薄い。

 

〔連獅子〕

襲名披露などの場合はをくとしても、「三人連獅子」とか、「四人連獅子」とか「五人道成寺」などという、いわゆる「変形物」が頻繁に普段の舞台にかからぬように願いたい。

 

〔加賀鳶〕

「木戸前」での鳶の面々の台詞が早すぎる。もっとゆっくりでもいいのである。

「お茶の水」で道玄(幸四郎)が百姓男に一太刀浴びせ、二、三歩ゆったりと大きく輪をかくような「足どり」をみせてからツツツゥーと花道の付け際まで進んで「見得」をするのだが、この前半の「足どり」が見事に「歌舞伎」の面白さになっている。

「質店世」になってからの道玄(幸四郎)は、性根は悪党だが時々とぼけた味やユーモアを感じさせる演技でなかなか心憎い。しかし、そうしたなかでも「お朝」(児太郎)の手紙を読む件の、あの油断のならぬ鋭い「目づかい」などというものは、だれにでも出来るというものではない。

幸四郎は、とにかく「間合い」の取り方が上手い。松蔵の「空も朧のお茶の水」というセリフで思わず煙管を落とす件、また、松蔵の「(あの煙草入れは)ありゃ道玄、手前ぇのだろう」という台詞に対して、「いいや知らねえ、覚えがねぇ!」と大きく張って白を切る件の「間合い」の取り方なども抜群だ。

「伊勢屋与兵衛」(錦吾)が「お朝」に与えた五両(現在の五十万円くらいか。幕末の頃は価値が下がって一両五、六万くらいと考えても、現在の三十万円弱)の大金を「僅かな金を」と言っているのが気にかかる。

秀太郎の「お兼」には、異名の「おさすり」にふさわしい、下衆な色気があって素晴らしいと思うものの、仕科や台詞にふぅーっと関西風の雰囲気が流れてくるのが惜しまれる。それと「高跳び」寸前の件の「おいらもそうなるのだろうねぇ」と言う呟きに「哀れさ」が薄い。

 

〔御浜御殿〕

「理」を説く新井勘解由にあえて「めでたく本懐を遂げさせてやりたいのぅ」としみじみ語りかける台詞、また、自嘲気味にいう「女狂いも楽しいものではないな」という綱豊卿(仁左衛門)の「台詞回し」の上手さなどには脱帽だ。それに、思わず敷居を越えてひれ伏す助右衛門を見下ろしながら言う、あの「忘れるな、そちは俺に憎い口をききおったぞ」という台詞もまた、深い「いたわり」の情が篭められていて、深く感動させられた。

対して染五郎(助右衛門)も、大きく張っていう「貧乏というものが無駄になります・・・!」などというセリフに実力をみせている。

 

〔盛綱陣屋〕

秀太郎の「微妙」は、その体形の細さもあってか、思いのほか「貧相」で「品位」に不足がある。

「篝火」(時蔵)と、「早瀬」(扇雀)の「立廻り」はその衣装の対照性もあって「華やかさ」が充分に発揮される件だが、二人に「調子」がなく、いまひとつすっきりしない。「古典味」が二人の体に薄いからかもしれない。

それにしても「竹本」の弱さには閉口する。最近の「時代物」のつまらなさの大半は、彼らにその「責(せき)」がある、といっても過言ではなかろう。