七月歌舞伎座 | 和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

グリデン・ワズミの歌舞伎劇評

海老蔵、猿之助という、次代の歌舞伎界を牽引してゆく人気俳優の公演でありながら、丸本「時代物」の作品が一つもかからなかったのが残念だ。七月、という季節を考えて、気楽な「新作」で、と思ったのかもしれないが、せっかくの歌舞伎座という「檜舞台」での公演が決まったのだから、幸四郎や吉右衛門などの指導をうけて、しっかりとした基礎勉強をしてほしかった。ご本人はどう思っているかはしらないが、四十歳前後の海老蔵、猿之助などでは、まだまだ技量は「未熟」の段階だ、といっていい。
 第一、「新作」とはいえ、「古典歌舞伎」に精通されている宇野さんの「柳影澤蛍火」などは、「時代」のイキで演じなければ到底成功はおぼつかない。「時代物」の修行で得た<肚>の的確な把握、義太夫の勉強を通しての強弱緩急、自在の「台詞術」なくしては絶対に優れた舞台の構築などはのぞめないのだ。海老蔵などは柳沢邸玄関の場での、あの片足を白碌に落としての懊悩の情を表描する件や、桂昌院を殺してから息を確かめ、あたりをみてニヤリと不敵な笑いを浮かべる件の鋭い目使いなどを見ると、その資質の並でないことを思い知らされるものの、一方で、桂昌院を踏み台にして手段を選ばず権力の座を得ようとする陰影濃き吉保が、仕科とは無関係に、ただ平板に、口先だけで、「ああ、出世したい」とか、「柳沢吉保、出世せねばならぬのだ」と言っているだけなのだから、話にならぬ。海老蔵には、今、なによりも台詞の習練をしてもらわなければならぬ。まず、義太夫の勉強だ。猿之助の「隆光」には美男の裏に隠された「怪僧」のイメージが薄いことと、やはり台詞の「間(ま)」のとり方に工夫がいる。そこへゆくと、さすがに東蔵(桂昌院)は役者が一枚も二枚も上である。台詞といい、仕科といい、見事に「時代」のイキで通している。尾上右近の「おさめ」に著しい技量の進捗をみた。他に、中車の綱吉。市川右近の千阿弥。猿弥の権太夫がなかなかの巧演だ。昼の部の最後には、季節感あふれる「流星」がつく。猿之助が雷の夫婦喧嘩を軽妙に踊ってみせる。
 夜の部は、「荒川の佐吉」。盲目の子供を守る三下奴が親分の仇を討ってひとかどの渡世人になる筋立て。主役の猿之助が、それを真情溢れる姿で演じきる。巳之助の辰五郎が予想を上回る佳演。猿弥の仁兵衛。米吉のお八重。中車の相政。笑也のお新。門之助の清五郎。それに海老蔵の郷右衛門だが、これがひどい。特に台詞だ。序幕の「人に嫌われるから生きてゆけるのだ」などという台詞は、一体どこから出てくる「声」なのか。そういえば「鎌髭」にしても、「景清」にしても同断だ。評者によっては、市川家の嫡子らしく、十八番物の復活、改訂に情熱を傾ける姿勢を多とする人もいるけれど、いかに隈取りをし、目をひんむいて荒事風に演じようとも、あの奇妙な裏声ともつかぬような、荒事とは全く無縁の発声をされたのではたまらない。荒事の<声>あってこその十八番物なのだ。重ねていう。好漢海老蔵君、まず第一に台詞の勉強を。(2日、3日所見)