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実家を整理する際、大量の品々が遺されました。
決して高価な品ではありませんが、戦争の時代を生き抜いた両親が、その時代、何とか守ってきたもの、あるいは何もない所から始めた生活の中で、少しずつ選びながら買い揃えたものばかりです。
移住までの3回の仕分けで、どうしても手放せなかったもの。
そんな品々との暮らしも、今回の移住のテーマです。
我が家が友達の家とは何となく違うなぁ…ということは子供ながらに思っていました。
当時には珍しく母が働いていたこと、だから小学校に上がると“カギっ子”で、保育園の遠足や小学校の参観会には父が来ていたこと、
そして両親ともに年を取っていたこと。
母は旧満州・大連の生まれ。その父親が大陸で仕事をしていたためですが、そこが倒産して早々に引き上げてきたことが幸いし、終戦時の大陸での混乱に巻き込まれることはありませんでした。
ただ戻った国内でも思うようにはいかなくて、一人娘の母は進学を諦めて17歳で代用教員になりました。
戦後の混乱期に父親が家を出たまま帰らなかったことは以前書いたことがありますが、母親との暮らしを支えるために働き続け、定年まで勤めました。
松本に育った父が、静岡を離れたことのない母とどうして出会ったのか詳しいことは知りませんが、「養子に入って母親と同居してくれたから」とは聞いていました。
結婚後も母は働き続け、我が家の生計は母の収入で支えられていて、今思えば、父は途中で会社を変わっているのですが、私にその記憶がないくらい、さほど影響のある出来事ではなかったということなのでしょう。
母は理屈の人で、何事も言葉にして、口にしたり書き留めたりしていました。
父はにこやかで優しく、私は父親っ子でしたが、父の前にはいつも母がいたので、結局父とまとまった話をすることはありませんでした(父も深刻な話をするのは苦手ではありましたが)。
そんな両親がのこしたもの…
母がのこしたもの…
それは大量の日記。
ここにあるのは昭和13年・高等女学校の生徒だった頃から平成22年まで
戦前のものは確かどこかに疎開させていたと聞いたことがあるような…
真ん中に開いたのは終戦の日のことを記したページ
日記帳の始めは大きな字だったのが、ノートが貴重になったこの頃は小さな字でびっしり書き込まれています
これ以降の日記も、まだどこかの箱の中にしまわれているかも。
日記の他にも雑記が書き込まれたスケジュール帳や、母が関わっていた活動に関するもの、家計簿など、まだまだ大量の記録。
父がのこしたもの…
それは大量の写真。
花や風景など、パネル用に引き伸ばした写真
これはごく一部
この他にも散歩の途中で出会った親子や施設や病院の仲間やスタッフなどの人物写真、合わせれば1000枚以上はあったかと。
古いものでは、家族アルバムに残された、ちょっと珍しい写真。
※モデルは兄です
無断掲載ですが可愛いから許されるよね?
白黒写真と父が手作業で彩色した写真
別のページのカラー写真と比較すると、柔らかな色合いながら
当時の色が鮮やかなまま残されています
器用でマメな人だったので、写真の彩色はもちろん、日本画風の絵を描いたり、料理をしたり、大工仕事をしたり、家のことは父が担っていました。
私の子供たち(孫)を可愛がり、写真やビデオも父がのこしてくれました。
いろいろなことがあったし、ちょっと不思議な家族ではありましたが、アルバムの中の兄も私も満面の笑みを見せているし、この家族が今の私を作っているのは確かなこと。
戦争によって思い通りには生きられなかった時代を過ごした父母の世代。
父や母が家でゴロゴロしている姿を見たことがないほどよく働いていて、贅沢にも無縁。
そんな姿はしっかりと目に焼き付いています。
さて、のこされたものをどうしよう。
紐解いていけば、きっと分からなかったことがつながってくるのかも…
でも、今はまだ開けない。
そもそもこうした記録って、本人は後の人たちに伝えるために残しているのだろうか?
答えが出ずに“のこされたものたち”です。
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