決戦・日本シリーズ(今津線シリーズ) | 阪神間をあちらこちら

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「一球入魂無他念 快打洗心天日清」

甲子園でのオリックスとの交流戦も、連勝で終わりましたね。

オリックスの前身:阪急ブレーブスと、阪神タイガースは共に西宮市をフランチャイズとしたチーム。
10年前に住んでいた家の南のベランダからは甲子園球場の照明塔が、北の窓からは西宮球場のナイター照明が見えた。その位、二つの球場は近いのだ!(なにしろ直線距離で甲子園球場から真北に僅か2㌔!)

2リーグ分裂後、両者が公式戦で試合をするとしたら日本シリーズあるのみ。
唯一、その可能性が高まったのが、1973年。
その年、ブレーブスは2シーズン制の後期優勝を果し、タイガースはあと1勝すれば優勝するところにいた。
しかし、パのプレーオフは前期優勝の南海ホークスが優勝し、タイガースも最終試合で巨人にボロ負けし、両者が日本シリーズで戦う事は、とうとう無かった。

それから8年後・・・

僕が通っていた大学には『現代講座』という、学生が企画して著名人を呼んで実施する講演会なるものがあった(今でもあるが)。
で、1回生の時、その現代講座に関わっていた友人から、
「次回、誰呼んだら皆の興味惹くかな? ええ人おれへん?」と尋ねられ、
「SF作家の、かんべむさしさんなんか、ええんと違う? 社会人経験活かした作品多いし」と答えると、
「おっ、それええやん、いただき!」となり、
彼が上級生に諮ると、トントン拍子で決まって開催された、という出来事があった。

虎キチの僕は、かんべむさしの書いたショートSF「決戦・日本シリーズ」を愛読していたのだ。
「決戦・日本シリーズ」 イメージ 1 とは、
大阪のスポーツ新聞社が、発足25周年を記念してイベントを企画した。おりしも阪急・阪神の両社が保有する「阪急ブレーブス」と「阪神タイガース」が開幕以来独走態勢に入っていたことから、「日本シリーズで両球団が戦い、敗北した方の会社の路線を、勝利した会社の電車が凱旋走行する」というものであった。
両社の路線は今津駅で接しており、そこに設けられた連絡線を用いて車両を行き来させることになった。そのため「今津線シリーズ」とこの対決は呼ばれるようになり、阪神間の各都市、すなわち大阪市・尼崎市・西宮市・芦屋市・神戸市では住民・商店街も巻き込んで、日本シリーズ直前からにわかに活気付くことになった。そして日本シリーズは第7戦までもつれ込んで引き分けとなり、最終決戦となる第8戦では観客5万人同士の乱闘沙汰となった…
なお結末は、「阪急が勝利した場合」と「阪神が勝利した場合」の二つに分かれていて、凱旋列車の走行を住民・応援団が妨害しようとする姿を描いている。

もうこの小説に出てくるモノ、無くなったものばかりで涙・涙なんですわな。
阪急ブレーブスに西宮球場、西宮北口駅のダイアモンドクロスはピンと来る人多いやろうけど、
今津駅の連絡線ちゅうのが、そもそも知ってる人が少なくなったんと違うかな?

戦時中、軍の命令で、宝塚と鳴尾の飛行機工場間の物資輸送のため今津駅で阪急と阪神を繋いだのが、90年代の初めまで残ってた訳です。

阪急の乗車ホームと、阪神の上りホームが金網を挟んで隣り合ってたんですが、この金網間に改札は無くて、いちいち地下道くぐるか、踏み切り渡るかせな、ならんかった。

   イメージ 2 

乗り換え駅なら、特急が常時停まっても良さそうだが、今も昔も阪神今津駅には停車しない。
そのため、甲子園球場に行くにも、今津駅で乗り換えるなんて滅多にしなかった。
だからこそ、たまに乗って今津駅のホームで電車を待つ時は、この金網がなにがしか絵になっていたもんだ。

今は、双方、離れた高架駅になった
震災で辺りもすっかり様変わりし猥雑さが消えてしもた(パチンコ屋の多さは健在だが)。

昭和は遠くになりにけり・・・てか