そもそも◯は存在するのか?◯の名を騙る者は無数に存在するし何なら自らを◯と名乗る人まで居るし誰もが知る有名な哲学者が「◯は死んだ」と言ったんだから生きてたんだ!と驚いて良い訳だから◯は存在していたんだろう
それでも中には◯なんか存在しないと誇らしげに語る人は居てそれは探した結果居なかったと言ってるのか存在を確証した為に◯との契約で口を閉ざし秘匿したいのか◯の恩恵を受ける人が羨ましくて妬んで言ってるのか存在するのかしないのかわからないのに誰かが言ってた言葉を猿真似してるのか確認したくなる
結論は神を心に持つか持たないのかすら自分で決めて良い訳なんだけどそれを信教の自由と言うのではないが笑神を心に想う生き方(自らを神とする人)と神との対話なく生き方がある
あるかないか証明できないと諦めたら自分勝手にないものをあることにして話し始めてるから◯が神になったんだが自分の生き方は自分で決めても文句はあるだろうが自由なはずなのできっと発狂はしてないと思う
なぜ神との対話について久しぶりにブログを書くのかと言うと心に神を持つことが究極のアンガーマネジメントだと言いたかっただけなのでここでブログを終えても怒られないはず笑
思春期の少年少女たち同様(例に漏れず)人はなぜ生まれ生きるのか?自分とは何なのか?などと思わずとも怒る自分を変えたい人は少なくないので心に神を持つと怒らなくなりますよーという話
人は一人一人違う肉体と心?を持って生まれてくるからその差が共感したい気持ちを強めたり反発を感じて排除したくなる元だけど整形しても皮と少しの骨が変わるだけで内臓は変わらないし何なら臓器移植をすると人格が変わる例もあるんだけど形のない心は人の体のどこに宿るのかの疑問に答えるなら取り敢えずは腸としか言えない
最近の研究で腸内細菌叢が人の気質と何かしら関連があるのではないかという結論があるがないものをあるとするまでは科学的手法では至らないので仏陀が存在し続けてる訳で存在の証明を必要としないものを証明しようとする徒労もその人の背負って生まれた罪なんだろう程度のことだよね
理由のある怒りに対して人は理由を付けて許しについて考える
知識と経験からアンガーマネジメントを行うんだけど完璧じゃないしできないから他に何か探したら異なる世界観で生きるという選択肢を選ぶ人が現れるんだわ
自分だけど違う自分の存在を認め始める(演じ始める)現実逃避こそ発狂者なんだが諦観について間違えた方向へ行っちゃったんだなうん
この世こそ地獄で悪いことをしたら地獄へ落ちることはなく単なる悪いことを正当化する為の言い訳で最悪の行いとなる弱い自分に負けた状態
肉体という制約が存在するのに崇高な理念を持つ意味がないと人は感じる不公平と不平等感に苛まれるが他人と比較するから不幸になるから辞めればいいのに辞められない弱い自分を無くす方法を知らない
そこで神が存在するとすれば神の許しを言い訳に悪事を働く悪魔教から逃れられると…つまりこの世は魂の浄化を求め徳を積み罪を償い霊格を高めて解脱する為の試練の連続とすれば他人に関与してる暇はなくなり怒りの感情は一切湧かなくなると…
誰かに足を踏まれて小指の骨が折れたら痛いし怒るが自分で箪笥の角にぶつけて怪我したら怒りのやり場に困るけど人は大抵諦めるしいつまでも箪笥を許さずに一生恨んでやると叫ぶのはきちがいだし不注意な自分を許さないのは最早人ではない記憶力の良さだ
人は痛みが消えたら嫌な記憶は消えて行く様に脳が働くのに他人を許せても自分を許せないことの方が辛く難しいんだから全てを許すには神を恨むしかない訳だ
そうそう他人を許しても自分を許さない人の為にブログを書いてるスタイルは変わってないよ
内罰的な人が好きなのでそんな良い人の為にいつも話してるつもりだけど自分を許さないとまた輪廻転生しちゃうから(多分)自分が神と認める存在を自分で作って対話すると自分を許せる時があったからこうして書いてる
またこの地獄で過ごしたいまで悟りを開いてる方には無用だけど苦しく悲しいのは嫌なので解脱派には神との対話をお勧めしてる笑
天上天下唯我独尊でも自分本位主義でも透明な風景画派でもいいが他人への関与は徳と罪をはっきり意識して無為に近寄らないことで覚悟がないなら関わってはならないとなるし無に還るには自分を意識する矛盾を抱え自分と血縁地縁あるとしか関与しない昔の生き方が宗教的に正しく毎日を忙しく充実させて生きる怒りのない生き方へと向かわせるものなんだろうね

出会いは必然(偶然はない)とする運命論を肯定するが選択するのは自分でありその時に神の存在を心に想うのかどうかで結果は変わるし因果応報の無限ループから逸脱するチャンスであり運命は変えられると口にできる矛盾を融和できる
人が生きる理由は前世からの徳を受けながら罪を償い許しを現世で得る為にあるそれは他人だけでなく自分を許す行為も含まれるというのは肉体という制約を持ち痛みと苦しみと喜びと快感を得られる状態にあるからに他ならない
精神だけになってしまったら他人に全く関与することができない

他人への最大の関与は恋愛(結婚)だ

雪の華が映画になるそうだが「誰かの為に何かをしたいと思えるのが愛ということと知った」なんて愛という言葉を免罪符に他人への関与を強行するエゴでしかない
愛にも形がなくあるのかないのか証明できないものは全て強欲で自己中な者に騙られて利用されるけれど否定はしないのは恋愛や結婚は女性の魂には重要な行為であると認めているし他人との生活が解脱への近道として利用されることを知っているからでただ強引な関与が更に罪を重ねる結果を迎えることも知っているのでそれを愛と俺は呼ばない
愛を現す為に愛と呼んで行う利己的な行為に恋愛が含まれているだけに過ぎない

愛は無限に広がるが肉体は有限だと知り自分の居場所を定め解脱の為に生きるとすれば他人の言動への怒りは生活を破壊する者だけへと向けられる正しい怒りとなる
正しい怒りまで失う必要はないと知ると怒る自分を許せる
なので神を語る罪を犯してるけれど神との対話について書いた

次回は人類誕生の謎に迫る!