一番思い出に残ってる夏の歌は?【投稿でドットマネーがもらえる!】ブログネタ:一番思い出に残ってる夏の歌は?【投稿でドットマネーがもらえる!】 参加中
村上春樹の風の歌を聴けを思い出す
未だタイトルの意味も分からないが、ビールを飲んで床にピーナッツの殻を撒き散らかすのは記憶にある小説だ

今時の若者には信じられないだろうが、軍曹は音楽に興味がなく、友人の勧めがないと聞かない
テレビ、パソコンだけでなく、オーディオ機器もない部屋に普通の人は驚く

軍曹を知る人は別段慌てないが、音楽厨は直ぐにiPhoneを繋いで音を流し始める
今の電子音に対する脳への悪影響について考え始めたのは古く、初音ミクなどは特に聞いていられないし、チップチューンの脳髄の破壊が招く惨事は何度か経験してる
(笑)
音楽厨は思考能力が低下していて、股の緩い女が多い印象にあるから、ナンパするなら音楽厨が一番高確率だと経験してる

なぜ常に音が流れていなければならないのか、理解することはきっと軍曹には不可能だ
音楽厨が音のない軍曹の生活を理解しないのと等しく

村上春樹の比喩的な意味での風の歌を聴けが、軍曹はまんま風の歌をいつも聞いている
沖縄が好きな理由に風が吹くことを挙げてるが、自然の奏でる音、人の暮らしにある音はいくら聞いても飽きないのに、なぜ機械的な音質と人工的なメロディーに興味がないのかは軍曹自身も分からない

なぜ音楽にだけ興味がないのかは考えたことがある
一つは音楽を必要としないとする自分の持って生まれた何かがそうさせているということ

そもそも音楽はなぜ生まれたのだろうかと考えたこともある
きっと静かで怖かったのかもしれないし、演奏が楽しかったり、音の組み合わせに快感を覚えた猿人が居たんだろう

大昔なら、霊的な存在を払う悪魔払いとして音楽はあったんじゃないかと、人里離れた辺鄙な場所でBBQキャンプをしていて感じたことがある
勿論、一人で山の中に居ても同じような感覚を覚えるが、一人の時は音楽を流すと周囲の危険を察知出来なくなるから音は邪魔になる

音楽とは多くの人が集まる場所で演奏されることに意味があるとも考えた
確かに今もフェス、コンサート、ライブ、盆踊りと自然と人が集まる形で演奏は行われている
村上龍の五分後の世界にも音楽によるトランス状態が及ぼす人への変化について書かれてるシーンがあると思うが、音楽とは本来なら集団催眠の為にあるんじゃないかとさえ思えてくる

ネイティヴインディアンの部族集会でも人の人の集団における相互的な作用、人と人が集まり、語ったり触れ合ったり、歌ったりをすること自体に力があって意味を成すとする教えがある

音自体に人の快感を刺激する力はある
だから、音楽を聞く理由はある
音楽が果たす魔除けの効果を軍曹は知っているし、集団に対する音の効果も理解出来そうだ
今なら音楽性以前に好きな人が歌う歌だから聞くとか、歌詞に自分の人生の物語を重ねて共感する為に音楽を聴くのも分かる

だが、なぜ一人ででも24時間音を聞くのかは理解出来ない
恐らく…恐らくといいながら、明らかに脳の器質的、当然の結果として機能的に異常があると思われる
いや、答えを焦ってはいないしまだまだ学ぶ点が残ってるんだろうが
実際に音楽厨と関わると容易に彼女達が異常性を有し、人間関係が上手く行えないことは観察される

単純に嫌な音から耳を塞ぐ習慣から音楽厨になるのは見たことはないし、恐らく初めから何かの異常があって成長し、そこにたまたま音楽の刺激が心が楽になる刺激として当てはまった為に音楽厨になった
そう見受けられる

では、軍曹はどうなんだろうか?
きっと逆もまた真なりで、音を必要としないのならば、今度は固定化して働かない部位が脳にあって、回路が存在するが働いていないなんて状態も考えられるだろうか?

音楽には精神安定効果と刺激する働きの両面があり、音楽を聴くと落ち着いて居られる人と働いていない脳が動く為に音を遮断する人が居るのかもしれない

一番夏の思い出として記憶に残る歌を聞かれても困る
風の歌しか聞いてないんだから、答えようがない

風の歌ってどんな意味を持って書かれたタイトルなんだろう?
自然の中にある音なら波の歌でも、炎の歌でもなく、エアコンの歌とかタイヤの歌でも当然なくてね(笑)
自分の内なる声を風に例えるのはネイティヴインディアン位しか知らないから、単なる自然の欲求だけでなく、無意識と意識下の自分の声の摩擦による音を聴くイメージが風にはあるから、自分の全ての存在から聞こえる声を風の歌と言うのだろうかと考える

村上春樹の諦観やニヒリズムに共感することは全くないが、風の歌を聞くという行為からイメージするものが好きで手に取った本だ
結局、発売されてる全ての書籍は購入したがな(笑)
無意識の悪意の存在とか、運命論は否定されるが人の善意が異なる形になる諦めや体と心が離れている人の行いが自分を結果傷つけることへの抵抗感のなさにはうなづく事はある
村上春樹の諦観は、沖縄では特に有名な、まくとぅそーけー なんくるないさーが一番近いのかと感じてる

村上春樹の霊性は高く霊的な存在を感じてるはすだ
でもそれは典型的な触媒型で、明確に視える人との交流によってのみ自覚されるものだろうと診ている

否定出来ないし、敢えて肯定もしないスタンスにあるんじゃないかな?
読んでいてそう思わせる部分が幾つかある
例えば、物事を進めてその結果がどのように現れるのかを気にする主人公がその結末を知るその知り方
双子の姉妹の設定自体や昔の彼女を見つけてしまうシーンは霊的な存在を自らも感じていなければ書き得ない展開と思う

頭が悪くて論理的な説明は省略したい一心なので、従う
無駄な努力をしないこともいつも沖縄で風の歌を聞くからだ(笑)

理解されたくないし、して欲しくもない
欲しいのは、共鳴だ…ふむ、やはりどこか何かの異常がありそうに思える

人と音楽はどの様な関わり方がベストか誰か教え欲しい
享楽の為なら、大人数で野外ライブが最高に楽しめるとは思ってる

一人で24時間音楽を聴くとか、全く音のない生活をしても何かを感じないとかの理由が知りたい



ブログでドットマネーを稼ぐ