マジカル・ミステリー・ツアー2
午後から散歩。
高校のとき一度来て以来の街をねりねり歩く。
散歩は、実際にするのも、テレビなんかで見るのも、どっちも好き。
ちいさんぽとか、アド街とか、ぶらり途中下車の旅とか、ああいう街散歩番組はテレビをつけてやっているとついつい見てしまう。
だけどその実、ああいう散歩番組と実際の散歩とは、まったくの別腹。
好きな理由が全然ちがう。
散歩番組で味わいたいのは、知らない街で感じる人情や趣き、いわゆる「街のあったかさ」。
だけど実際の散歩で味わいたいのはその逆で、知らない街で感じる疎外感やヨソ者感、家を思って胸が切なくなる感じ、つまりは「街のつめたさ」だったりする。私の場合。
スティングの歌で、Englishman in New Yorkてのがあって、歌詞は
I'm an alien I'm a legal alien
I'm an Englishman in New York
こんなかんじなんだけど、知らない街を歩いてるときの私はまさにエイリアン気分。
そして自分がエイリアンになったみたいな気持ちで知らない街を歩くときのなんともさみしいひとりぼっちな感じが、私はどうにもこうにも中毒的にすき。
ちいさんぽの地井さんみたいに、「こんにちは~」なんてどこにでも入っていけるならいざ知らず、私は知らない街を散歩しても誰かと口をきくことなんかできないので、あるであろう人情に触れることもなく、そうして黙りこくって長いこと歩いていると、自分と世界の間に妙な違和感がでてくる。
ふだん、日常生活では自分と世界はとっても密接に信頼関係を築いていて、たいてい、裏切られない。
家から駅までの近道を歩けば最短で駅まで到着するし、蛇口を左にひねると水が出てくるし、時計が止まってたらそれは電池切れだ。
法則と経験から作り上げた常識によって、世界を疑うことなく生活ができる。
だけど、一人で知らない街を散歩していると、歩けど歩けど他人顔の建物、容赦なく暮れていく時間、コンクリとアスファルトののっぺりしたグレー、点在するうっそうと茂る緑・・・となんだか世界が妙によそよそしく、見慣れたものとは違って見え、どうもあやしくなってきて信頼できなくなり、急に違和感を感じずにいられなくなる。
向こうの角からシロクマが曲がってくるような、電信柱にくくりつけられたスピーカーから聞こえる商店街の宣伝が、人間の声じゃなく聞こえるような、なんていうかあやしいふわふわした気持ち。
それはたとえば、小さいときによく考えた
「自分の見てる赤は他の人には青に見えてるのかもしれない」
とか
「ヌ。という文字をずっと見てたらヌがヌじゃないみたいに崩壊してきた」
とか
「今すれ違った人が振り返ったらいないかもしれない」
とか、そういうふだんだったら考えもしないのに特殊なシチュエーションでのみ急に思いついて頭から離れなくなる変な考えに似てるもの。
そうこうしてるうちに妙に「世にも奇妙な物語」気分が高まり知らない街はもはや異空間。
これが私の散歩の真骨頂で、そんなときはオーガニックごはんが出てくるしゃれたカフェよりもベロア生地の椅子が昭和を髣髴させる純喫茶に入りたいよね。やっぱり。
そして散歩も終盤に差し掛かり、おなかもすいてきて夕暮れ、これからどうしようかなと空を見ると、昼と夜がせめぎあって空がものすごい奇妙なマーブル色になってることがある。
夕暮れ・黄昏の時間帯を逢魔が刻というそうだ。
うーん、さもありなん。
そんなときはもったいないので、どこにも入らずまた淡々と歩く。
高校のとき一度来て以来の街をねりねり歩く。
散歩は、実際にするのも、テレビなんかで見るのも、どっちも好き。
ちいさんぽとか、アド街とか、ぶらり途中下車の旅とか、ああいう街散歩番組はテレビをつけてやっているとついつい見てしまう。
だけどその実、ああいう散歩番組と実際の散歩とは、まったくの別腹。
好きな理由が全然ちがう。
散歩番組で味わいたいのは、知らない街で感じる人情や趣き、いわゆる「街のあったかさ」。
だけど実際の散歩で味わいたいのはその逆で、知らない街で感じる疎外感やヨソ者感、家を思って胸が切なくなる感じ、つまりは「街のつめたさ」だったりする。私の場合。
スティングの歌で、Englishman in New Yorkてのがあって、歌詞は
I'm an alien I'm a legal alien
I'm an Englishman in New York
こんなかんじなんだけど、知らない街を歩いてるときの私はまさにエイリアン気分。
そして自分がエイリアンになったみたいな気持ちで知らない街を歩くときのなんともさみしいひとりぼっちな感じが、私はどうにもこうにも中毒的にすき。
ちいさんぽの地井さんみたいに、「こんにちは~」なんてどこにでも入っていけるならいざ知らず、私は知らない街を散歩しても誰かと口をきくことなんかできないので、あるであろう人情に触れることもなく、そうして黙りこくって長いこと歩いていると、自分と世界の間に妙な違和感がでてくる。
ふだん、日常生活では自分と世界はとっても密接に信頼関係を築いていて、たいてい、裏切られない。
家から駅までの近道を歩けば最短で駅まで到着するし、蛇口を左にひねると水が出てくるし、時計が止まってたらそれは電池切れだ。
法則と経験から作り上げた常識によって、世界を疑うことなく生活ができる。
だけど、一人で知らない街を散歩していると、歩けど歩けど他人顔の建物、容赦なく暮れていく時間、コンクリとアスファルトののっぺりしたグレー、点在するうっそうと茂る緑・・・となんだか世界が妙によそよそしく、見慣れたものとは違って見え、どうもあやしくなってきて信頼できなくなり、急に違和感を感じずにいられなくなる。
向こうの角からシロクマが曲がってくるような、電信柱にくくりつけられたスピーカーから聞こえる商店街の宣伝が、人間の声じゃなく聞こえるような、なんていうかあやしいふわふわした気持ち。
それはたとえば、小さいときによく考えた
「自分の見てる赤は他の人には青に見えてるのかもしれない」
とか
「ヌ。という文字をずっと見てたらヌがヌじゃないみたいに崩壊してきた」
とか
「今すれ違った人が振り返ったらいないかもしれない」
とか、そういうふだんだったら考えもしないのに特殊なシチュエーションでのみ急に思いついて頭から離れなくなる変な考えに似てるもの。
そうこうしてるうちに妙に「世にも奇妙な物語」気分が高まり知らない街はもはや異空間。
これが私の散歩の真骨頂で、そんなときはオーガニックごはんが出てくるしゃれたカフェよりもベロア生地の椅子が昭和を髣髴させる純喫茶に入りたいよね。やっぱり。
そして散歩も終盤に差し掛かり、おなかもすいてきて夕暮れ、これからどうしようかなと空を見ると、昼と夜がせめぎあって空がものすごい奇妙なマーブル色になってることがある。
夕暮れ・黄昏の時間帯を逢魔が刻というそうだ。
うーん、さもありなん。
そんなときはもったいないので、どこにも入らずまた淡々と歩く。