急行[高千穂]完乗ルポ、最終回。前記事の夜行区間に続いてVol.3はいよいよ最終回、九州区間である。例によって門司~西鹿児島間の停車駅は以下の通り。

 

門司→西鹿児島間の停車駅
門司 4:51
小倉 4:57
行橋 5:20
宇島 5:39
中津 5:47
宇佐 6:11
杵築 6:35
別府 6:56
大分 7:11-7:18
臼杵 7:56
津久見 8:08
海崎 8:25
佐伯 8:30
北川 9:30
日向長井 9:39
延岡 9:50
南延岡 9:57
日向市 10:15
南日向 10:25
高鍋 10:56
佐土原 11:09
宮崎 11:23-11:31
南宮崎 11:35
田野 11:59
都城 12:40
西都城 12:40
財部 12:58
霧島神宮 13:28
隼人 13:44
鹿児島 14:13
西鹿児島 14:20

 

 

 東京~門司間1102kmを18時間32分、評定速度59km/h、そのうち東京~大阪間は69km/hと、急行としてはそこそこ俊足であったのに比べ、この先、門司~西鹿児島間471.4kmを9時間29分、評定速度49.7km/hと途端に鈍足になる。単線区間が多く、交換も多くなるが、どうもそれだけではなさそうだ。山陽夜行区間ではさんざん道を譲った[高千穂]であるが、この区間の特急退避は無い。なのに、別府を1時間も後に発車したディーゼル急行[しいば1号]507Dに、西鹿児島駅で10分差まで追い詰められる。

 

 

小倉→津久見 ダイヤグラム
(昭和49年7月号の時刻表から作図したもの。下り[高千穂]の走行間帯に近い列車のみ抜粋)
 
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 相棒の[桜島]を切り離し、7両編成と身軽になった[高千穂]号。ここからは単独で4101レを名乗る。日豊本線と分岐する小倉までは、一足先に発車した[桜島]に続行。約1時間後ろを【彗星3号】が追いかけているが、日豊本線区間で差は縮まらず、大分で逃げ切る。

 

 

 
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6:42分宇佐始発 ED76 23の牽く通勤列車524レが発車を待つ。
日にちは変わって、8月26日 月曜日の朝、小倉へ向かう通勤列車だろうか、宇佐までの間に4本の普通列車と交換した。
 
 
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 宇佐を過ぎると街並みが途絶え、豊後との国境へと分け入る。
 併走する道は、国道10号だろうか。
 別府、大分と停車した後、この春に電化されたばかりの幸崎~南宮崎間に駒を進める。

 

 

 
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津久見→宮崎 ダイヤグラム 
 佐伯を過ぎ、SL時代の難所宗太郎を超えると日向路だ

 

 

 
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日向路を進む4101レ[高千穂]
 10系客車のみからなる美しい編成だ。冷房搭載の為、屋根を低くしたグリーン車オロ11が単調な編成にアクセントを与える。

 

 

 間もなく山間の小駅、北川に停車。7両編成の列車さえ最後部はホームからはみ出でてしまった。ここで、新大阪行き特急【みどり】34Mの通過を待つ
 
 
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新大阪行き特急【みどり】通過
折角のボンネット、邪魔しているのは、同行のS君。
 
 
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 後追いは、貫通タイプ。
 絵入りマーク前の文字のみのヘッドサイン。筆者はこちらの方がどちらかと言えば好きだ。

 

 

 
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続く日向長井で気動車急行[フェニックス]と交換
 宮崎発博多行き。全線架線の下を行く。
 当時は、このように全区間架線化を行くディーゼル急行が、幾つか見られたものだ。

 

 

 南延岡9時57分。間もなく10時丁度。東京を出発して一昼夜が経過。
 遠く東の地で、同名、同一列車番号の列車が発車したはずである。感動の瞬間だ。

 

 

 感傷に浸っている筆者らを他所に、[高千穂]は淡々と歩みを進める。
 10時25分、南日向に停車。

 

 

 
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大阪行き特急【日向】32Mを交換退避
この春の、幸崎~南宮崎電化で、【なは】とのコンビ解消したばかり。
 
 
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宮崎でDF50 542と交替した4101レ[高千穂]
 11時23分、宮崎駅に滑り込む。ここで約8分の停車中に、機関車の交換が行われた。
 
 
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宮崎駅で入れ替え仕業中のC57 95
 待望の蒸気との出会い。日向路を追われて激減した日豊本線の蒸気機関車。
懐かしい煙との再会であった。
 
 
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宮崎→西鹿児島 ダイヤグラム 
 終点まであと3時間。いよいよラストスパートだ。

 

 

 
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[日南3号]を牽くC57の通った道 
 
 赤ブタの異名を持つDF50。南宮崎電化に伴って南進、日豊本線の無煙化を成し遂げたれたばかり。ついこの春まで、最後の蒸気急行と言われた、C57の牽くかの有名な[日南3号]の晴れ舞台を進む。この日DF50の牽く[高千穂]を出迎えるファンはいない。

 

 

 
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東京行き寝台特急【富士】と交換  
 
 今年、幕を閉じたて話題となった名列車【富士】。
 この時点では8レを名乗り、西鹿児島発。ブルトレの元祖20系による編成だ。
(拙作の 惜別特別寄稿記事では大きなサイズでアップしています。)
 
 実はこの【富士】とも、[高千穂]号とは、東京到着前に1度、夜行の山陽区間で1度、そして、ここ田野で3回出会っている。当時の最長距離列車として、[高千穂]とともに王冠を2分していた。

 

 

 
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続く青井岳では、スプリンター[錦江1号]510Dと交換
解体を待つ疎開留置であろうか。この年の春の南宮崎電化に伴って働き場所を失ったD51であろう。
もの言わぬ背中が痛々しい。
 
 
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一瞬の遭遇。有火回送されるC55と遭遇
東都城を通過。貨1590レで宮崎構内入換え仕業の為に送り込み回送される蒸気。
 C55だ!フォローから水かきスポークがかろうじて見て取れる。
 一瞬の出会いに、夢中でシャッタを切った。

 

 

 南宮崎電化後も鹿児島機関区にかろうじて4両残ったパシ。
 美しい門鉄デフを装備したC55 57号機1両が弟分のC57 3両とともに入換え用に鹿児島機関区に残った。宮崎への送り込み回送はこの貨1590レで、機関区への返却は客541レでDF50の次位に有火でついて行われた。先にも述べたように、この時点で入れ換え始業は、都城、宮崎と吉松にあり全3仕業を4両の機関車でローテーションしていたようだ(SLダイヤ情報 昭和49年夏特集)。

 

 

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都城で入換え仕業につくC57
関東から煙が消えて久しいこの当時、宮崎からここまでに、3両ものC57(C55)に遭えたわけで、眠気も吹き飛ぶような感動を覚えたものだ。
 
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西都城で82系特急【にちりん1号】と交換
架線の無いすっきりした日豊本線。腕木信号機が時代を物語る。
 昭和49年8月時点で、日豊本線を経由する【にちりん】は電車、気動車各1本の2往復体制。
 この当時は、他に山陽線へ直通する【みどり】2本に【日向】を合わせて昼行特急5往復体制で、日豊本線内の旅客を捌いていたことになる。

 

 

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大隈大川原で東京行く4102レ急行[高千穂]と道中3度目の交換

 

 

  西鹿児島を11時52分に発車し、明日の16時06分に東京へ着く、上り急行[高千穂]4102レと、昨日の10時丁度に東京を出発し、後1時間程で終点の西鹿児島に到着しようとする下り急行[高千穂]4101レがタブレットを交換。自分と同じ列車の上りに3度も出会うのは、当時この列車だけであった。夏の昼下がり、薩摩入りした山間の小駅で静かにそのイベントは行われた。

 

 

 14時20分、終点の西鹿児島に到着。
 『大変長らくご乗車ありがとうごいざいました。…』
 東京から実に28時間である。確かに大変長い。この放送を聴くために、そしてその長さを実感すべく道中3度の、同一列車との出会いをこの目で見るために、この列車を完乗したに他ならない。

 

 

 日豊本線内では、別府、大分、延岡、宮崎、都城と客が頻繁に入れ替わり、すっかりローカル急行の態である。この日同じハコで東京から乗りとおしたのは、筆者らの他、大学生とおぼしき一名のみであったと記憶している。車内では、続いて西鹿児島から先の乗り換え案内がなされる。その中に、14時33分発、鹿児島本線経由東京行き急行[桜島]号が含まれていたことは、当時の時刻表をお持ちの方であれば想像に難くないであろう。目を赤くして疲れきった筆者らは、西鹿児島に到着するや、次の目的地山川へと修行を続けた。

 

 

 日本最長距離急行[高千穂]号の完乗記はこれで終わります。

 

 

 乗車券以外にたった300円の追加料金で鹿児島まで行けてしまう気軽さ。
 一昼夜経ってもまだ終点に着かないという、今となっては贅沢といえるほどののんびりとした道中。
 急行が急行らしく、特急は特急らしい時代でもありました。
 そして、当時学生であった筆者らの味方はいつも急行でした。

 

 

 この後は、この旅行の後半、日南線のC11~肥薩線大畑ループ~後藤寺の96撮影記(VOL4へ)と続きます。
 引き続き、宜しくお付き合いほどおねがい致します。

 

 

 

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