前期に提出した、倫理学の授業のレポートです。別に、日記としてアップするような内容でもないんでしょうけどね。 荒削りな文章だけど、色々と悩みながら考えた文章だったので、いま間違ってWord文書を開いて、自分で読み入ってしまったんです。

話が大きくなりすぎてるし(文明論的というか、本質論的というか、書き方も文学的というか、掴み所が無い感じ)、これがレポートと言えるのか分かりませんが、鎌田先生なら受け止めてくれそうで、大それた文章を書いたもんです(笑)。

理想社会なんて実現するはずがないんですよね。それでも、思索と実践を重ねて、人間、生きる限りは一歩一歩前に進まなくっちゃいけないんだと思ってます(我ながら何が言いたいんだ???)。

宗教(者)から私たちは何を学びうるのか、宗教がなぜ相克を引き起こすのか、融和の道があるとしたらどのような可能性か、そんなことを考えながら書きました。

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【宗教と倫理についての考察 ~非暴力の実践と非戦論~】



 ガンジーの唱えた非暴力は、現代の福音たり得るだろうか。世界の尊厳を守るという意味において、果敢な挑戦であったことは間違いないと思う。彼の説いた非暴力は、何を根源としたもので、今を生きる私たちに、どのような教えを与えるものだろうか。

 「サティヤグラハは、決して報復は支持しない」「溢れんばかりの隣人愛で満たされていなければ、アヒンサー(不殺生)の実践は不可能」。インドの宗教伝統のなかから、アヒンサーを倫理として汲み取り、実践するために一生を捧げたガンジーの生き様は、ヒンドゥー教の価値観のみのなかに埋没するものではなかった。ガンジーは非常に幅広い宗教理解を示し、愛とアヒンサーをキーワードにして、様々な宗教から行動規範=倫理を見出して解釈していった。

 1930年の有名な「塩の行進」は、アメリカなどのメディアを通して、世界に広く報じられた。暴力に対し、手で防ごうともしない行進者たちの示す「不服従」は、「イギリス人」への対抗ではなく、「抑圧」への不服従であった。彼の実践は、民衆の圧倒的な支持を得た。不可触民制の持つ暴力性を退けようとした実践者ガンジーは、一人ひとりが己の暴力性に気づくことを要請していた。この暴力性への「気付き」の要請こそが、彼にとっての最も重要な宗教倫理、アヒンサーの核心だったと思われてならない。それは、インド・パキスタン分離独立後の凄惨な戦乱のなかで、民家を一軒ごとにまわって非暴力を訴え、断食に入った彼の行動に見て取れる。



 非暴力の歴史、絶対平和主義の根源は、どのような所に見出せるだろうか。「目には目を、歯には歯を」という同害報復の原則が、紀元前のバビロニア・ユダヤの文明においては、「同害で事を収める」という一定程度の暴力の抑制装置として作用していた。だが、この原則を覆して見せた言葉が、マタイ伝5章39節に書かれている「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」というイエスの教えであった。絶対平和主義は、迫害時代のキリスト教においては信仰の前提たる伝統であり、ローマへの従属たる兵役は紛れもない偶像崇拝であった。キリスト教がローマ帝国の国教になった後も、メノナイトやクェーカーやアーミッシュなど、平和主義の流れは傍流であったにせよ、確かに存在し続けている。戦後の日本基督教団も、基本的にこの流れを受け継いでいる。

 ガンジーは、イエスの死という「無抵抗」によって、「善の力が社会に解き放たれた」と語る。「山上の説教(垂訓)」に則って行動しようとしたガンジーは、キリスト教の絶対平和主義を受け継いだ人物でもあるとも言えるだろう。日本ならば代表例として、当初に唱えていた義戦論を翻し、「武装せる基督教国」など存在し得ないと語った内村鑑三が挙げられる。現代に連なる流れとして、かつてはキング牧師がアメリカで、今はダライ・ラマ14世が、宗教の枠組みを超えて、世界へ向けて非暴力という方法を示そうとしている。



 ガンジーは、アヒンサーという宗教伝統を掲げる一方で、何千年と続いていた不可触民制という「伝統」を破ろうとした。インドのカースト制は、単なる「分業体制」という言葉では片づけられない面がある。貧困・差別を固定してしまう抑圧体系であり、ヨハン・ガルトゥングの定義する「構造的暴力」に間違いなく含まれるものだと言える。ガンジーにとっては不可触民制という構造の暴力性こそ、インドの大きな問題であり、「ヒンドゥー教にとっての最大の汚点」と呼ぶとともに、「われわれを堕落させ、帝国のパリア(不可触民)にしてきた」と発言している。この構造は、ガンジーには暴力以外の何物でもない、と思われていたことが、「(大英)帝国のパリア」という表現から読みとれる。自分たちが埋没している構造の暴力性を破棄しない限りは、愛とアヒンサーに基づくかたちでの自治はあり得ない、という主張だとまとめられよう。「差別をしている限り、抑圧を払いのけることなど出来るはずは無い」と。

 力で抑えつけるやり方に対し、力で対抗しないが故に、抑圧者は幾多の死体を手に入れられても、決して服従を得ることはできない。キング牧師は、「非暴力主義の奥底には、命を捧げられるほど愛しくて、貴くて、永遠に真実な何かがあると確信する」と語っている。黒人たちのデモ行進を暴力で妨げることは、白人の警官たちにも、やがて出来なくなっていった。抵抗されない故に、力の無意味を悟り、良心を呼び起こされたのだろう。世論は抑圧する側に対し、非難を浴びせ始めた。「I Have a Dream」の演説で、彼が描いた未来の姿は、白人と黒人が共生する社会であった。キング牧師もまた、信仰を倫理とした人であり、信仰をもって自由の到来を信じ、「共に働き、共に祈り、共に闘い、共に獄に向かい、共に自由のために立ち上がる」ことができると語りかけた。

 ダライ・ラマ14世は、慈悲と一体のものとして、“Universal Responsibility”を説く。卑近な例を用いて私なりに解釈するならば、足元にゴミが落ちている時に、自分が落としたゴミではないからと無視するか、それを拾い上げる普遍的責任を行使するのかという、道徳上の選択を私たちに迫っている言葉だと、私は考える。「悪人に悪の責任がある」と事態を放任するのではなく、問題解決の方策を尽くす忍耐力を、慈悲の心を持つことを語りかける。仏教者として、怒りを退ける方法を示し続ける彼の姿は、世界中から注目を集め続けている。彼もまた、中国人を憎んではならないと語る。



 今の世界の主流は「絶対平和主義」ではなく「正戦論」であろう。正戦論が成り立つための諸条件が満たされていれば、戦争は肯定されていく。例えば、国家レベルの話なら、国連の安保理決議によって決定された紛争への介入が挙げられる。個人のレベルのことに言及するなら、銃乱射事件が起こるたびに、護身としての銃保持を肯定しようとする意見がでてくるアメリカの世論には、正戦論が実際に強く生きているという実例が見てとれる。

 アメリカの宗教右派、所謂ファンダメンタリストには、ジョージ・ブッシュ前大統領が口を滑らせたような「聖戦論」も確かに見られる。聖戦論の本質主義は、正戦論以上の恐ろしさを秘めているのではないか。全てを善悪のどちらかに峻別する二元論的世界観と聖戦論が結びついたとき、そこに融和の可能性が見出せるとは到底思えない。「十字軍」には果てがないのである。権益争奪の歴史は繰り返されることになる。



 ここで、ガンジーの実践がどのようなものであったかを振り返って見ると、第一に自分が実践した上での一人ひとりへの呼びかけであったことに気づかされる。日本という、一定の治安が保たれた社会において、「平和主義者」を自称することなら誰にでもできる。ガンジーの行なったことは、平和主義でいこう!と単に唱えるのではなく、暴力性を自分たちの構造のなかに見出して、それを撤廃させ、自ら糸を紡ぐインドを目指し、「塩の行進」を行なうという、己の良心に基づいた徹底的な「実践」だった。

 話を日本国憲法に移す。憲法9条には、GHQのなかでも民政局の人たちの、堅い理念がそのまま表わされている。日本の「牙」を抜くという連合国の意図だけに動かされたのではなく、民政局は、漠然とした像であったにせよ、時代の厭戦感を受けとめ、「平和主義」を憲法のなかで成文化していこうとしていた。私は、十七条憲法の「以和為貴」…議論を尽くし、睦び合うという心得の思想が、憲法9条の理念と並立することによって、日本が世界を新しい方向へ引っ張っていく姿を夢に描く。憲法9条を、戦力不保持と交戦権放棄のみを意味するものではなく、真に一人ひとりが高邁な覚悟を持って掲げられるような日本の姿はあり得ないのだろうか。

 軍備撤廃を説いた内村鑑三の言葉は、実に重いと思う。「(軍備撤廃について)『非現実的なまぼろしにすぎない』とあなたがたはいうだろう。しかし、あなたがたのいう武装した文明というのは、現実的であったか。自らその非現実性を証明したのではなかったか。むしろ、武装しない平和こそ、唯一可能な平和ではないのか。」内村の思想のなかでは、軍事上の勢力均衡論は、完全に「破綻している」と理解される。

 日本においては、「現実」に憲法を合わせて改定し、自衛隊を国軍として保持することを主張する意見がある。私は、その人たちが語る「現実」像に疑いと気味悪さを持たずにはいられない。彼らの多くはイラク戦争を支持したが、その論理には、「北朝鮮の脅威を意識するが故に、アメリカの圧倒的な力の前に、愕然として怯えなければならない」という構造の発想しか見えてこないのである。その結果、何が成し得たのだろうか。イラクが「良くなった」とも決して言えない上、東アジア情勢は何も変わっていない。正戦のための諸条件に照らし合わせても、イラク戦争は明確に否定される。アナン国連事務総長(当時)は、アメリカの行動を「国連憲章違反」「国連への侮辱」だと強く警告・非難している。



 力の論理が果たして世界に何をもたらしているのか。例えば、スーダンの混乱は誰が為か。挙げていけばきりがないが、今の米中のような収奪する論理のみでは、60億の人間が生き延びることなど、想定できるはずもない。

 私には、正戦論の発想を闇雲に否定することもできないが、それほど大きな期待を持つこともできない。「すべてのものに打ち克つ力を秘めた、愛と真実というものを信じなさい」と語ったガンジーや、キング牧師が具体的に示してみせた「隣人愛」のあり方、内村の提言のなかには、現代人が学ぶべきものが多くあると、私は考える。

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長文ですね。ここまで読んでくださった方は尊敬しますよ。いや、本当に。

どうでしょう。肯定意見でも批判でも何でも、コメントを頂けましたら、冥利に尽きます。ここに書いたことが絶対的に正しいなんて、全く思っていませんので。自分の頭の中にあるものを、勢いでドッと書き出した内容です。

う~ん。自分でも何を書いたんだかなぁ。一遍には消化しきれんわ。