III
六輪一露説
金春大夫として活躍し、現在の金春流の中興の祖である。
1444年には既に、六輪一露説の「原案」ができたと言われている。
寿輪
天地がまだ分かれていない、“天地未分”の状態です。
完全に満ち足りて、欠けることなくすべてが備わっていて、そして時間的に無限に続く状態です。
形のないままで、“無相”でありながら“動静迷悟の一源”でもあります。万物を視覚に訴える“風姿”を発露させる“器”のような状態です。自然に振る舞うことの中に風情があります。
意識と無意識は、分類される前に根源的な状況を表わす、“自他”がまだ分類されていない状態です
物の名はそのいろいろに変われども名無しの名をば呼ぶ人ぞなき。
〔至道無難〕
言葉によって分別されていない、言葉以前のこの位は、幽玄(物事の奥に潜んでいる知り得難い境地)の根源であります。
自分が最終的に、“本来無一物”から始めた旅で、再びこの域に到達するわけです。
堅輪
神話の始まりです。
有心は生死の道
〔一遍、門人伝説〕
堅輪は、“天地分化”の発端であり、「陽・陰」、「大・小」、「上・下」など大別の状態です。
“主体”と“客体”が分離する(主客二元論)境地です。存在は、“知る者”と“知られる物”として二つに分かれます。
花が色月が光とながむれば心はものをおもわざりけり
〔一遍〕
(自分)意識の始まりです。人間の苦痛(試練)は、精神科医のユングも指摘するように、“意識”というものを持ち出したことに始まります。意識は、その中心に自我を発達させ、自我は自己を主張しながら拡大していくのですが、途中で都合の悪いものが抑制されるのです。
五大に皆響き有り、十界に言語を具す。六塵悉く文字なり、法身は是れ実相なり。
〔声字実相義〕
空海によると、「声・字」が世界の実相を表現しています。世界は、「声・字」を通して自らを開示しています。響きによる声が、表象である世界の物事の個別の名を表わして“字”となります。存在は“言葉”として言葉と共に現れて来るということです。
思はねば思わぬものも無かりけり思えば思うものとなりぬる
〔至道無難〕
世阿弥の少年期にあたる子供の思春期は、自分が出来上がった、頂点に達したという感情がある時期です。
華やかな美しさ(時分の花)に迷わされることなく、どんなにその時が良いからと言って、生涯のことがそこで決まるわけではないから、しっかり修行(稽古)に挑むことが肝心です。
又は、人と自分を比べて自分が劣っていると感じる時期で、諦めることなく、負けないように自分も頑張る努力を続けるべき時期です。
無しと言えば有るに迷える心かな、それをそのままそれと知らねば
〔至道無難〕
住輪
天は天、地は地、なる万物が、自分の住むところを得る位です。
つりかねにとまりて眠る胡蝶かな
〔与謝蕪村〕
皆、とにかく自分の居場所を定めたいものです。形態形成が落ち着き決まるのですが、世は無常で、人生は、川のように流れていくものです。
一、二、三、四、五、六、七、八、九
〔良寛〕
最初のうちは意識的に集中を要していた行動は、繰り返すうちに無意識的な行動へと変化します。そうすると、習慣化した単調的な日常ができてしますのです。
環境に対する適応作業の一環として、人間は習慣づけられているのです。行為に形ができ、自分を束縛する習慣を作ってしまいます。心を一か所に定めて、動かさない、安定したかのような「心のまま」である状態です。
暑き日を海にいれたり最上川
〔松尾芭蕉〕
自分の考えを堅持して、固定観念や偏見に囚われたり、物事への依存の傾向が見られたりします。
一期の堺ここなり
〔世阿弥〕
限界のうち、進歩がないときには、耐えることが必要です。そこで絶望して諦めたりすると、自分の限界を超えることができなくなるのです。
像輪
道々品々分かれ変わっていくところの位です。
世界の多層構造を感じさせます。新鮮に目に映る広大な世界像が外に広がっています。
一即多
〔華厳経〕
“人の心は面の如し”と言います。万物、心に浮かぶ心象は、それぞれです。意識の領域は、自分を他者や外界から明確に区別します。
新渡戸稲造が
「僕はつねに思う、一枝の花のなかに千種の花を見えぬ者は、花を語るに足らぬ」〔自警録〕と指摘しているように
縁起に注目し、因縁によってあらゆる事象が仮にそのようなものとして生起していることを発覚するのです。
又、像輪は、意識領域の拡大で“自己執着”を手放します。精神分析家のエリクソンが人間の発達に欠かせないものとして見る“アイデンティティー”の確立時期です。
多即一
〔華厳経〕
すべての物事を統一する世界を、いかに見るべきでしょう。多様性は、幻影か?個々人の心を超えたところに万人共通の心があります。自分は自分として生き続けると同時に自分が所属する社会の人々や世界とは一体性を実感します。
世間にもてはやされて、自分が達人であるかのようにまたは、思い込むのを世阿弥は“あさましいこと”と言います。
真似ることは、あくまでも本物のコピーなので「まことの花」とは違うものです。「時分の花」を、「まことの花」と知る心が、真実の花に遠ざかります。“初心”を忘れず、修行(稽古)に励むべきです。