わたしは生れてしまった

わたしは途中まで歩いてしまった

わたしはあちこちに書いてしまった

余白 もう

余白しか 残ってゐない


ぜんぶまっ白の紙が欲しい 何も書いていない

いつも 何も書いていない紙

いつも これから書ける紙


(書いてしまえば書けないことが

書かないうちなら 書かれようとしてゐるのだ)


雲にでも みの虫にでも バラにでも

何にでも これからなれる いのちが欲しい


出さなかった手紙

うけとらなかった 手紙が欲しい


これから歩かうとする

青い青い野原が欲しい


『吉原幸子詩集』吉原幸子



高校時代、国語便覧でこの詩を読みまして。

なんだか感銘を受けたので、画用紙に書き出して実家の部屋の天井に貼りました。今でも残っております。

我ながらなんと青い春。


未だにこの詩をたまに思い出してしまうのは、中途半端な夢を持っているからなのか、大人になれないモラトリアムを抱えているせいなのか。


でもやっぱり好きな詩だなあ。

五能線とカシオペアにはいつか乗ればいい、シャガールはいつか見ればいい(7月に熊本に来るし)。あっ三浦綾子記念館にも絶対いつの日か。


「行ってしまえば行けない場所が 行かないうちなら 行こうとしているのだ」


まだ何もできていないって、なんと自由なことでしょう。

おお、このFREEDOM。カップヌードル。大友克洋。