昭和48年発行、菊田一夫氏の遺稿集「落穂の籠」です↓
装丁と題字は芹沢銈介さんだそうです。
立派な字ですー
この本の内容から、先日のブログにちょっと書いた "菊田一夫が映画「第七天国」に命を救われたエピソード" の続きです。
二十歳で徴兵検査を受けるために満州から帰国した菊田青年は、手元に三円五十銭しかない状況で八十銭を支払い映画を見ました。
これはすでに「やけくその出費」であり残金は二円七十銭。「上京してこれが絶えた時、なおかつ職にありつけなかったら、こんどこそ本当に死のうと思った(それまでに二度も自殺をはかっている)」、と書いてありました。
しかし彼は映画の主人公であるチコとディアンヌの人生が自分のことのように悲しくて号泣。
映画を見て身につまされて「私も、どんなにしてでも生きていこう」と決心してまた号泣。
菊田氏、この若き日の涙について「あまりにもミーハー的、ありきたりのオジチャン、オバチャンが、映画の中身と自分の身の上とを混同して涙をこぼす、あのまことに安っぽい涙でもあっただろう」と客観視しておられます。
しかし、、、 「だが私という一人の人間は、その涙により、その号泣により、そのとき以来、いまもこうして生きながらえているのである。」
ワタシはですね、この逸話にものすごいリアリティを感じました。
「映画に生きる力をもらった」なんて、ありがちな表現だと思われるかもしれませんが、これはそんなもんじゃないんですよ
この方は両親の離婚によって一歳にならないうちに(生後40日とか、4ヶ月?とか、いろいろ書いてあります)近所の河野家に養子に出されました。(実母が家を出たあとの実父の後妻は実母の妹、というややこしい背景まであり。)
しかし河野家に実子が生まれたことによって杉野家に預けられます。
杉野家で一夏を過ごし、次は菊田吉三郎・せつよの養子になったそうです。ここで菊田姓となるのですね。
菊田吉三郎はやさしい気性のひとで、終生父として尊敬し愛情をいだくのはその人である、とのこと。
それなのに彼が小学校二年生のときに吉三郎が急逝。
養母せつよは何人かの夫を持つことになったようですが、七番目?の夫「金森」という男がひどい人で…
「これからは商人になるのがいちばんだ。大阪の商業学校にいかないか」と偽り、小学六年生の菊田少年を中退させて当時住んでいた台湾から大阪に連れて行き、薬問屋へ年季奉公に売り渡した、というのです
かぞえで13歳、満12歳の男の子が養父の言葉を信じて昼は丁稚奉公、夜はこっそり受験勉強をし、毎週波止場に行って台湾から到着する船に養父を探しては落胆し、やがて騙されたと気付いた時にはオイオイと泣いた、というお話はあまりにも切ないです
そのような幼少期、青少年期があって「私は小学校も満足に卒業していないのである。」と自伝に書いておられる訳です。映画に命を救われた、という表現は軽い比喩ではなくて、文字通りのお話だと思います。
「映画とか演劇とかテレビ・ドラマとかは、芸術であるということ以外に、世の人々の心をあたため、こころのささえとなるためにあるものだろうか、それとも、そんなことは、どうでもよいものなのであろうか。私はどんなときにも前者をとりたいと思う。そのために、たとえ悪評をこうむろうとも…。」と書いてありました。
なので、この方がシアター文化を発展させていったパワー、その原動力は「映画とか演劇とかテレビ・ドラマとかは世の人々の心をあたため、こころのささえとなるためにある」という信念だったのでは、と腑に落ちたのでした。
…ちなみに…
丁稚奉公に出されたきり苦労を重ね、自分は天涯孤独だと思っていたのに…
成功し有名になると、実母だ実父だ実兄だ、という人々が現れて仰天したそうです。
本人は孤児だと思っていた一方で、生家の人たちは、菊田少年が大変な苦労をしているのを知っていた。それなのに「もう菊田の人間だから」と放っておいた
人間て、そんなもんなんですね