空虚な戯言  -5ページ目

冬と春の間、朝


eastern youth “夏の日の午後”


神様
あなたは何でも知っていて
心悪しき人を打ち負かすんだろう
でも真夏の太陽は罪を溶かして
見えないが確かに背中にそれを焼き付ける

蝉時雨と午後の光
まだ生きて果てぬこの身なら
罪も悪も我と共に在りて

俄雨と濡れた舗道
傘持たず走る街の角
追い付けない
追えば逃げる影に

明日を呼べば雲垂れ籠めて
甘い夢を見れば雷光る
濁り河流れ、水面に揺れる
拙い歌はゆっくりと沈みゆく

日暮れる街 風凪ぐ道
灯も遠く誘えども
『振り返るな』
どこかで低い声

月の明かり 縺れる足
酔い痴れて帰る帰り道
感じている永遠に続く闇を


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「1950年代を二度経験して一気に1970年代に跳んでしまった人よ」


そんな台詞、いいな、オモシロいなって
この2週間で同じ映画を2度観て、さっき3度目を観終わった、
同じ台詞を3度聞いて改めて、
“あぁ、いいな” って想っていた、言葉に意味はないけどね。
その表層とタイミングがね。

ある季節に異なる季節を想うのは、
結構何気ないようで、ちょっと深めの気持ちもあったりする、
それが時間的なものでもなんでも。

色々なことをじっくり噛み締めたいなって、
ただただ映画観て、煙草吸って、ちょっと音楽聴いてたら
もう、こんな時間。。

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“長い年月変わらなかったのは野球だけだ。
アメリカは驀進するスチームローラだ。
すべてが崩れ、再建され、また崩れる。
だが、野球はその中で踏みこたえた”



ここのところ、週末は3~4本映画を観ている、
秘かな楽しみで、小さくて幸せな時間だ。
チャンネルをザッピングして観た観ないに関わらず、
気の向いたモノをコーヒーと煙草を飲みながらダラダラと観る。
こないだは、何だか偶然か野球に関わる映画を2本観た。

『フィールド・オブ・ドリームス』は、
きっとそれなりに有名な映画で小さな頃から何度も観ていだろう、
その辺で石を投げたら3人に1人は観てる人に当たる様な映画で
当時の印象もそれなりにオモシロく想った程度の映画と記憶していたけれど、
ある程度に時間が経過して観返すと、
感覚が変わったのか、また違う印象を持つから不思議だ。

今でこそ、様々なモノゴトか多様化して、
善くも悪くも色々なモノゴトが現れては消えて・・・と。
僕の小さな頃と比べてもその総量は倍近くなってるんだろう。
今、小さな子に“
将来なりたいもの”を聞いたとしても
小さな頃の自分には理解出来ない答えがたくさん出てくるだろうし。
でも僕らが小さな頃は多分「野球選手」ってのは
間違いなくトップ10以内には入る人気回答だったろう。
あまり興味を持たなかった僕だって小さな頃はキャッチボールはしたし、
バットもグローブも持っていた。
当時の野球選手の名前だって片手では足りないくらい想い出せる訳で、、

・・・とくに野球がどうのこうの言うワケでもないんだけれど、
確かにアメリカじゃなくたって、野球って確かに夢の対象で
白球を追いかける姿を眺めたって楽しめるだろう。
今、野球って言うとタイミング的にもだいぶ旬だけれど・・。

ファンタジーとしてそのテーマと時代背景、そして家族。
そんなのがたまたま良かっただけなのかも知れないけど、
ちょっと昨晩観ながら、何だか心底いいなって想ったんだよ。




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『フィールド・オブ・ドリームス』 1989年 US

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『3-4x10月』 1990年 日本

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センジュ

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遠くに千住大橋を眺めれる隅田川沿い



もう10年以上前に、西新井大師駅のケンタッキーで
相席になった80歳位のお婆ちゃんを想い出した、
松尾芭蕉や河合曽良について散々に語っていた。
そんなコトを想い出したのは、今日歩いた散歩のコースでした。




北千住という街はここ最近は全く縁もない、
だいぶ前には仕事だったり、オートバイにも乗っていたので
4号線(日光街道)は時折ただ走っていたこともあった。
最近じゃ地図や路線図で時々見る僕が行かないだけの場所程度だったけど。。
今日は何となく気まぐれにソコで降りて歩けるだけ歩こうと思いました。

今日は例えどんな街だろうと、
散歩しているだけでウキウキするような暖かい気候だった、
でも、久しぶりに行った北千住は何だかスゴく魅力的に感じたのは
浮かれさせるような天気だけじゃないかも知れない。
何だか情緒ある下町風情も心地よかった。

トコトコとキョロキョロしながら歩いて、
ただそれだけで眺める街は十分に楽しめるんだけれど
僕が見たかったのは『千住大橋』。
うろ覚えのフォルムの良さは漠然とあったけれど、
実際に見たらやっぱり格好良かった。

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大橋の名が堂々としてる『千住大橋』

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アーチの伸び具合、絡み具合がいい

空虚な戯言 -03091
この色合いも


後から調べてみると
>>昔の旅人にとって千住大橋橋を渡ることは江戸を去る第一歩であり、また江戸入りの第一歩でもあった。

>>架設当時の橋の名称は単に 『大橋』 と呼ばれていた。
>>隅田川に架かる唯一の橋であったから、この呼び名になったようだ。
>>この『大橋』 架橋から67年後に、隅田川の第二橋の 『大橋(両国橋)』 が架橋されるに至って、
>>千住の地名を冠した 『千住大橋』 と呼ばれるようになったという。
>>最近多い 「○○大橋」 の原点となる橋でもあったわけである。
など、実際に背景のしっかりとした由緒正しい橋だったようだ。

橋を渡る前、松尾芭蕉の石碑があったので、調べてみたら
>芭蕉が出発地点とした初めの宿が「千住」であった。

>つまり千住は、松尾芭蕉「奥の細道」出発の地でもあるのである。
西新井でお婆ちゃんが芭蕉の話をする訳だ。

>千住は縁起の良い町として「千寿」とも表記される。
>江戸時代頃から日光街道の宿場町として栄えていた。

ただの思い付きだったけれど、何だか縁起がいい街を散歩出来たのは良いコトだ。
そんな3月の初めの日記。

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ん? 何だ この緑はなんだ?

空虚な戯言 -03095
まるで呑み過ぎて吐いてるような緑だ

クンクン

結構前に、視力が回復するとかいう本あったじゃない?
何だか変な模様の中に“絵”や“文字”を探すやつさ、
あれの効果、信憑性以前に自分がのっけから全く出来ないことに
何の面白みもなかったなぁ。





最近、ふっと面白いなって思ったのが
そう言った人の感覚のようなコト。



>嗅覚は、五感の中で唯一「古い脳」が司る感覚という。
>情報伝達経路が、視覚、聴覚、触覚、味覚なんかとは異なるのだ。
>匂いだけが、他の感覚より速いスピードで、本能を刺激する。



フガフガ・・・
何かの一節でそんなのを目にして、
面白くて少し考えてみた。
確かに直に分かる気がする、凄く適当だけど。
その嗅覚以外の感覚って凄く鋭いのは身をもって感じるけれど
その鋭さって本能を刺激する鋭さではないんだよな、
言うなら、精密さ?緻密・・・なんだろ、外からの情報をリアルに感じれる。
そして本能を刺激する前に他の箇所を経由して行くような気がする。


“新しい=優れる”、“古い=劣る” のような
人間の陥りやすい錯覚は度外視しなければならないけれど。
物凄いスピードで本能を刺激する ってとても凄い能力だと想ったんだ。
“伝わる”、“理解”などというような、曖昧なことじゃなく、
言葉のまま“本能を刺激する”ってコトが。



>多くの動物は敵かもしれない相手が近づくと、「あっちに行け」というにおいを出します。
>「忌避物質」などといいます。ヒトも出しています。
>たとえば満員電車の中は、そういう物質でいっぱい。
>満員電車で友だちができた、ということは、まずないでしょ。



うむむ、オモシロすぎる・・・、
それと少し嬉しくなる、動物っぽくってさ。
「忌避物質」って言葉は知らなかったけれど、オモシロいね。
たぶん無意識に分泌するんだろうし、周囲を拒否する行為でなく現象ってのがいい、
まぁ、あの空間は誰も好む人はいないだろうけれど、
手持ち無沙汰に観察をすると大体の人は、携帯をイジる、音楽を聴く、本を読むって感じだけど
加えて“におい”も放出してるなんて!
そういったことと若干似てるけれど、周囲を拒否する行為として“眠く”なることがある、
ただ、これについては意識、無意識が曖昧、ただ自分の身を守る立派な作用かも知れない。



>昔から、五感といって、「におい」と「味」、
>あとは「見る」「聞く」「触る」ですが、においと味は、ほかの三感とちがうところがあります。
>嗅覚は空気中に漂う匂い物質を嗅覚器が感知し、対象物に接しなくても情報を得られる
>臭覚のこのような遠隔性の感覚は、人間をはじめとする動物が生命を維持するのに不可欠な機能で、
>食べ物を探すのはもちろん、外敵の存在を感知したり、生殖行動やなわばりの確保、
>仲間とのコミュニケーションなどにも重要な役割を果たしています。


>嗅覚は遠隔的に受け取る感覚なので、例えば、食品が腐敗していないか、
>つまり、目の前にあるものが食用になるかどうかを、
>口に入れる前に確認するといった安全確認にも利用される。
>また、土に埋もれて見えないものを探したり、遠くの様子を知ろうとしたり、
>気象のようにとらえどころのないものを知ろうとするのにも使われる。
>転じて、物事の雰囲気やそこに何らかの予感がすることを
>「匂いがする」とか「臭う」など、嗅覚に関わる言葉で表すこともよくある。


そうなんだよな、嗅覚って本能的というか、生命的にも大体が
重要な情報の気がする、そこは具体・抽象性問わずに。
“臭う”、“くさい”って断定的でなくても察知したら少なからず警戒してしまうもんな。
対象物に触れずに感知するのは3感かな、視覚、聴覚、嗅覚。
例えば幻覚ということで言うと“匂い”も勿論あるんだろうけれど、
大体は“見えた”“聞こえた”・・気がするってのが思い浮かびやすい幻覚だしね。
でも散々に重要な情報の気がすると言っても、凄く抽象的な例えで言うと
5感全てで感じて、それから断定、確定と決断するときに“嗅覚”を重要視すると
凄くそれはフィーリング的な意味合いも持つ気もする、
例えば対象物が“人物”や“空間”だったりすると。


何が優れた感覚かなんて答えを求めてない、
ただただゴタゴタ考えているのが面白いだけで。
対象物に触れずに感知する3感は汚れやすいのか、そこに“クソ”が付く。
アレルギーとかでは耳だけはあまり症例を聞いたことがない、
“神様”や“奇跡”があるとしてそれらを感じる比喩としても、
嗅覚や味覚はあまり思い浮かばない。



・・・・、



あっ、そうそう
視力が回復するとかいう本の話をしようとしたんだけど
忘れたし、僕はあれが全く出来なかった・・。
個人的にあれ、胡散臭いって思ったんだよ。

D


空虚な戯言 -217futa
盛田隆二 『二人静』


最近の読書癖もなかなか加速している感じがする、
目標があるワケでもないし、誰かと競っているワケもなく、
個人的な趣味で嗜み程度に移動時間などにコソコソ取り出して読みふける程度が
普段のペースだったけれど、空いた時間にはワズかだろうとページをめくる。

たぶん、幼い頃の読書をしてない頃には本を読む事に対して
変な下心があったんだろうけれど、
今は単純に目的があるワケではなく、ただ本を読むって行動が好きだ。
本屋に寄っては数冊の文庫を購入してはストックしているけれど
スピードが加速して少しペースがアップしている、良いのか悪いのか。。

そんな読書のコトを書こうと想ったのは少し前に読んだ、盛田隆二『二人静』。
たぶん、スゴく感動して涙を流したとか、イヤらしいけれどセンスを問われるとか
そんな理由でもなく、単純にオモシロくて夢中になれて、
個人的に色々と考えさせられた作品だったんだよね。

なんだろう、ただただ生きる日常って誰にもあるんだろうけれど、
そんな毎日を少し愛おしく、捉え方が変わる気がした。
日常や環境って勿論、人それぞれ違うしさ、思い入れも違うんだろうけれど。
リアルでいて、まず大切にすべきは日常だったり、手を広げて届く範囲の環境だと想ったの、改めて。
問題提起にすらならない、誰かと比較することも、討論することもない個人それぞれの日常。
それぞれの小さなコミュニティーが愛に溢れ、尽くされていることが大切だなと。



と、ここのところ放置気味だったけれど
少しづつ更新していこう と想ってみたりした。