今日は土曜。

私は前の前の前の前の前の職場の先輩方と遊びに行ってきました!


私、転職歴が多くて我ながら若干アレな人なんですけど、それぞれの組織で良いお友達に恵まれてるので、そこだけは良い感じなんです。仕事がらみでできた友人って、同じ戦場(ブラック企業)で共に闘ってきた戦友みたいなものですから、お互いに信頼しあえる感じがします。


でも、運悪く夫に仕事が入ってしまいました。長男(中1)長女(小3)は家で留守番させて問題ないのですが、知的障害の次男(小5)はちょっと心配、ということで、義実家に預かってもらいました。義実家のジジババは穏やかで怒らないので、次男くんは大好きです。


さて、無事遊びに出かけ、楽しく過ごした帰り道、スマホをみると、義母さんから何回も着信履歴があることに気づきました。


「ヤバい!何かあったのかな?!」

焦って掛け直すと、義母さんが、


「次男ちゃんが…!次男ちゃんが…!言葉を話したのよォォォォ!!!

と大興奮&感涙状態で教えてくれました。


その時点で、ハァ…とため息が。

義母さんは、次男の発語がないことをずっと心配して、いつか話せるようにならないかと、願い続けてくれていたのでしょう。次男のことを想ってくてるのはありがたいんですけどね、そんな突然しゃべれるようになるなんてことはとっくに夢破れているのです。

それで、「なんと話したんですか?」と聞くと、


「ママって言ったの!!!」とのこと。


確かに最近「マ」の音は言うようになりました。

繋げて「マママママ」ともよく言っています。タイミングが合えば、私のことをママと呼んでいるようにも聞こえるし、本人もママという単語は認識しているので全く偶然でもないと思います。

確かに、ママと呼んでもらったら嬉しいし、発語の機能が発達してくれたことも喜ばしいです。ママって言えて偉いねーなど声がけもしています。


でも、それだけなんですよね。

これ私がおかしいのかな?すごく冷静というか、冷徹なのかも知れないです。


今も次男は「アー!アー!」と大声で叫びながらマカトンサイン(もどき)や指差しでいろんなことを伝えてきますが、結局は要求がほとんどで、それもいきなり「おばあちゃんちに行きたい」とか「学校に行きたい」とか「パパはどこ?」とか脈絡のないことを言ってくるだけで、一日中これを繰り返しています。コミュニケーションはできないのです。


将来、次男が話せるようになるかということについては、正直あまり期待していません。話せたら良いなとは思いますけど。


それに、話せるようになっても、彼の言いたいことは自分の要求だけなんじゃないかと思います。今も次男と一緒に過ごすのが辛いのに、言葉のようなものを口にするようになったら、余計苦労が増えそうな気がするのも、なかなか恐怖です。


話戻って、義母との会話ですが、

「訓練すれば次男ちゃんは絶対しゃべれるようになる!病院連れて行って訓練してもらいなさいよ!」というんです。


彼がもっと小さい頃、一通りの検査はしていて、それ以来かかりつけの病院というのはなく、継続的な療育も特に指示されていません。重度知的障害って、そういうものっていうか、回復するものでもないし、ある日急に成長するものでもないんですよね。

小さい頃は訓練に似たことは結構やっていましたが、もう特別なことはするつもりがありません。支援学校で学ぶことや、お友達や家族との関わりだけで十分だと思っています。次男にとって大事なのは社会の中で問題なく過ごせるようになることですから、日常生活が訓練なんだと思っています。


これって諦めなんでしょうかね?

「諦める」っていうと聞こえは悪いですけど、「障害を受け入れる」というと美談になる。この二つってどう違うんでしょう。

私は親として、次男が話せるようになることを諦めるべきではないのでしょうか?希望を捨てずにもがき続けることが正しいんでしょうかね?


でも、そうなると障害児の親は一生苦しいと思うんですけどね。かといって放ったらかしで成長の機会を奪うような状況もダメだし。難しいです。