タイトルは、キュリー夫人の伝記漫画に出てくるセリフです。




私はこの伝記を小学生の頃学校に図書館で読んだんですが、なぜかこのセリフが強く記憶に残っています。当時私が読んだものと全く同じ本を購入したのでふと思い出しました。




ワルシャワはポーランドの首都なんですが、キュリー夫人が学生の頃、ポーランドはロシアに併合されていました。公共の場ではロシア語で話さねばならず、学校でもロシアの歴史を学ばなければなりません。ポーランド人が自分をポーランド人と名乗れないと辛い時代でした。


小学生の私は、そういった歴史があったことについて、なにか感想を持ったわけではないと思います。キュリー夫人の生涯もさらっと読んだだけだったでしょう。ボンヤリした子供だったので…。ただ「ワルシャワはポーランドのもの」と心の中で言いながら唇を噛み締める女の子の姿が印象的だったんですね。


今思えば、この小さな一コマの記憶が、巡り巡って今の自分に繋がっている気がするんですね。本を読んだ何年か後、多分地理の授業かなにかだと思いますが、「ワルシャワって知ってるのすごい」という大したことないレベルですがちょっと褒められて良い気分になった経験がありました。高校で世界史を専攻した時も、ポーランド侵攻あたりのところで「え!なんで知ってるの?」なんて驚かれたりしたんですよね。私は決して秀才タイプではなかったですが、こういった経験で自信を持つようになり、歴史や地理は「良い成績取るぞ!」なんて意気込むようになりました。



こんな感じで、「昔インプットしたちょっとした知識が思いのほか役立った」コトは他にもいくつかあります。珍しい話ではないですけどね。面白いのは、こういうのって出会った時にはそこまで重要視しなかったものが多いことです。


小学生の頃、犬の図鑑が好きで、何度も読み返していました。犬の図鑑ですよ?うちの親は「犬の図鑑ばっかり読んで…」と呆れていました。完全に趣味の範疇であるにもかかわらず、ここで得た知識は以外と学習の場でも役立ったと思います。犬種って外国の文化とも関係していて面白いんですよ。犬種の説明文を書き写したりしてたので(←ハマりすぎ)、作文の練習?になったかもしれません。



子供の脳みそは、すぐに覚えて、ずっと記憶できる素晴らしい柔軟性を持っているらしいですが、一方で覚えてほしいことはすぐ忘れるし、親の思う通りにはいきません。うちの父も、私が小学生のときNHKラジオ英会話を毎朝聞かせてきましたけど、オープニングの歌(きっそえいごワーン♪)しか覚えてないです。


何が記憶に残り、どんな記憶と結びつくかは本人にも周囲にも予測はできないけれど、結局は本人の好きなものや興味ある領域で、将来の道標となる記憶が蓄積されていくのだと思います。自分の意思でインプットしたものほど、長く長く記憶に残り、知識として蓄えられるんでしょうね。子供時代に何を見、聞いて育つかが非常に重要であることは既知の通りですが、好きで好きで仕方ないものを思う存分やらせてあげるのが一番効果的なんだろうなと思います。


これは単に知識系の話だけでないと思っています。例えば、私は昔ピアノを習っていたんです。全然練習しないし上達しないしで、よく辞めさせられなかったなと思うんですけど…。今でも母親に「あれは無駄金だったわ〜」と言われます 笑。


今思えば、、ですが、私がピアノで学んだのは「脳みそにインプットする方法」だと思っています。練習しても全然弾けるようにならない時ってイライラするじゃないですか、でもちょっと休憩したあとにもう一回弾くとできるようになっていたりするんですよね。このような経験から、「休憩によって脳の中が整理された!」「ヘタクソでもちゃんと練習は役に立ってる!」と自分の脳内をイメージするようになりました。


それ以来、漢字でも計算でも、間違えてもクヨクヨせずにやり続け、とりあえず練習、休憩、練習でやっていけば身になる!というマインドを持つことができたように思います。(ピアノが無駄金だと思いたくないばかりに美化しすぎてるかもしれませんが…笑)


つまり、子供時代の経験は、まっすぐに大成しなくても、何かしらの意味を残すのではないかと思うのです。記憶と記憶がいつ、どこでつながるかはわかりませんが、好きなモノやコトほど、未来の自分と「再会」する可能性は高い気がします。

ですから、目先の勉強も大事だけれど、興味を持ったものをなんでもやらせてあげるのが一番なのかな、と思うのです。


教育ってときに「投資」に例えられますが、その通りですよね。天才児ちゃんなら一銘柄に全額ぶっ込むところですが、普通の子の教育は分散投資がセオリーなんでしょうかね…



↑竹の伐採労働に精を出す長男くんと、やってるフリの長女ちゃん。これも何か将来の役に立つのだろうか…