我が家には重度知的障害の次男がいるので、どうしても考えてしまうのです。


「この子は何のために生まれて、この子を育てる意味は何なのだろうか」と。


勝手に育つのならばそんなことは考えないのかもしれません。しかし手間とお金をかけ続けなければならないのが重度障害者の家族の宿命です。この困難な暮らしになにか意味が見出したくなります。同じようなことを考えてしまう【社会的に弱い立場の人】と【それを支える人】はいるのではないでしょうか。



社会にはさまざまな人がいます。

豊かな人と貧しい人、若者と老人、頭が良い人と悪い人、美しい人と醜い人、健康な人と病気の人、健常者と障害者。

 

ほとんど全ての人が、できるだけ良い条件を備えたいと思っているし、社会が定めたあらゆる条件にかなうほうが幸せな人生になりやすいでしょう。だから皆、良い学歴をつけ、良い仕事に就くことを希望するし、メイクや整形で見た目を整え、良い結婚相手を探し、少しでも社会の上層に食い込もうとするのですよね。

その普遍的ともいえる価値観の中には、「下層に属したくない」という思いが見え隠れします。

あんな暮らしをしたくない、あんな人生は嫌だ。そういった思いが上昇志向につながっている人も多いと思います。

 

それは悪いことではありませんよね。

一人一人の頑張りは社会の活力になりますし、みんなが能力を高めれば経済社会がより進歩する可能性が高まります。

 

ですが、そういった価値観の中で、「上層に属さなかった人」はどういう位置付けになるのでしょうか。病気の人や障害者、高齢者など、納める税金よりも社会保障費の方が多くかかっている人たちです。最近では働き方の多様性が認められるようになり、これまで社会に出て働くことができなかった人たちに雇用の機会が与えられています。それは良いことですが、「それでも働くことができない人たち」はいます。それだけでなく、家族に介助や介護の負担や経済的な負担を与えている場合もあるでしょう。

 

この人たちの存在は何の意味があるのか、何の役にも立たない社会のお荷物ではないかと思う人もいるのではないでしょうか。

 

 

 

ところで、仏教の教えの一つに深く感動したことがあります。

私は葬式は寺でやり、初詣は神社にいき、クリスマスを盛大に祝う典型的無宗教日本人なのですが。

 

それは「障害児を育てることは、それだけで功徳を積んでいる」という教えです。

検索してもはっきりしたものは出てこなかったので、私の聞き間違いや宗派による違いがあるかもしれません。でも、仏教には貧しい人や病人に優しくしようという考え方がありますから、間違いではないでしょう。

 

この言葉にはだいぶ救われましたね。次男によって壁になすりつけられた便を掃除している時や、大切なものを壊された時、私のスマホをいじって警察に50回くらい電話された時、車を走行中に暴れられて事故りそうになった時など、幾度となくこの言葉によって精神崩壊を防いできました。「あー私ってば、今日も功徳めっちゃつんじゃったわー」と。笑


辛い状況にある人ほど救いを求めて宗教にすがるといいますが、その気持ちがすごくわかりますね。大昔から、社会的に弱い立場で生きることと、それを支えることは、神仏に答えを求めなくてはならないくらい辛いことだったのでしょう。先述の「障害児を育てること=功徳を積む」の教えによって、どれだけ昔の子殺しや捨て子が防げたかはわかりませんが、困難な育児の励みになったことと思います。

 

とはいえこれは考え方の問題です。話を戻して、社会全体で弱者を守る意味は何なのかということです。それは、弱い立場の人々を守ることは、自分を守ることになるから、だと思っています。まぁ「社会保障」という文字通りの意味ですから、意識の高い方にとってはそんなの当たり前かもしれません。でも私はこの意味を深く理解していませんでした。

 

私自身も持病があるので他人事ではないのですが、誰もが病人になるリスク、障害者になるリスクを抱えています。明日事故に遭い頭をぶつけて脳に障害を負わないとは言い切れません。そうでなくても数十年か後には自分にも痴呆が始まり、一人で生活できなくなる可能性が高いです。

健常者と障害者の境界線など本当に曖昧で、誰もがいつかは社会のお世話になる日が来るのです。そういう意味で、次男と私に大きな違いはないですね。

 

社会的に弱い立場の人たちを支えることは、将来弱い立場になった自分を支えることにつながります。温かく思いやりをもって手を差し伸べられる人が増えていけば、未来の社会保障に関する意識は高まるでしょう。弱い立場の人々が幸せに生きることが、社会の幸せを底上げする。これこそが社会保障の意味なんですね。私の持病に関して治療法があるのも、社会がこの病気を見捨てなかったからであり、私もまた社会から手を差し伸べられて生きています。

 

弱者を排除してしまおうという考え方は、将来の自分を排除しているということを肝に銘じなければならないと思います。組織で一番できない奴を価値がないといって切り捨てていけば、そのうち自分の番がやってきます。

 

「努力をして頑張りましょう」「みんなに優しくしましょう」

小学校のクラス目標には、深い意味があったんだなと思います。

上へ上へと自分を高めようとする上昇志向と、誰も見捨てない余裕のある心、これらが両立できて初めて人間社会が完成に近づくんでしょうかね。すごく難しいことだと思いますし、実際に日々を生きていると忘れそうになってしまいます。でも、今この瞬間に生きている自分の考えが未来を作っていると思うと、ちょっと崇高な気分になりますね。

 

今回は(も?)説教くさくなってしまいました。