重度知的障害の次男は、10歳ですが話せません。

 

生まれてこのかた、発語は全くなく、「アー」という発声のほかは、偶然出るなんともいえない声だけです。たまに「ウ」や「マ」の音が聞こえますが、自分の意思で出しているのではないようです。発語がないと障害レベルは重くなるそうで、全体的な知能は3歳くらいだそうです。

 

養護学校で「マカトンサイン」という、知的障害者用に作られた単純な手のサインがあるのですが、これを少し身につけているので、慣れている人ならある程度の意思を汲み取ることができます。まぁ日常で正確に使えるサインはそんなになく、「トイレ」と「お腹すいた」と「パパ」が多いですね。

 

次男が知的障害であると言うことに全く疑問はないのですが、興味深いのが、次男は言われたことを結構よくわかっている、ということです。意思疎通が完全には取れない子なので、絶対わかってないだろうと思っていたら、実は結構わかっていたりするんですね。意外と周りを見ています。

 

例えば、先日私が「アップルウォッチの充電が切れてるわ」とつぶやいたんですね。私のアップルウォッチは宝の持ち腐れ状態で全く使いこなせていないし普段つけてもいないので、次男の目に触れる機会はほとんどなかったはずでした。なのに、トントンと私の肩を叩くと、アップルウォッチ専用の充電器をスッと差し出してくれたのです。「あれを充電する時はこれだ」と、どっかで見て覚えていたんでしょうね。

そんなふうに、実は身の回りの物事について、結構細かいところまでわかっている節があります。

車の車種なんかもわかっていて、祖父母の車と同じ車種を見かけると教えてくれたりします。人の顔もすごくよく覚えています。

 

それだけ物事を判別できるなら、結構希望ありと思うじゃないですか。

養護学校の先生方も次男の洞察力の良さに気づいてくれていて、良い方向に伸ばせられないか試行錯誤してくれています。特に「発信」のための手段を増やすことができれば、次男が自分の意思を伝えることができて、彼の生活はもっと良くなるはずです。今練習しているのは絵カードを使ったコミュニケーションです。

ところが、次男は文字や記号になると全く認識しないんですね。絵カードは、絵になると認識できない&カードになった瞬間オモチャになってしまいうまく活用されません。先述のマカトンサインも、本当はもっと色々あるのですが覚えません。

 

たくさんのことがわかっているからこそ、言いたいこともたくさんあるだろうに。

思っていることを表現する術を持たないのです。

まぁ確かに、スムーズにコミュニケーションできたら、それは知的障害じゃないんですけどね。

 

次男はいつも「アー!アー!アー!アー!」と必死に何かを訴えているけれど、私でもわからない時があります。

想いが叶わない限り、「アー!アー!アー!アー!」は止まりません。

 

「次男くん、コレ?コレ?それともコレ?パパに会いたいの?おじいちゃんに会いたいの?学校の先生に会いたいの?お腹すいたの?お菓子が欲しいの?」と、彼が納得した表情になるまで候補を出し続けます。欲しいものは割とすぐわかってあげられるけど、「今こんなことを考えた」系はなかなか分かりません。いつまでもわかってあげられないと、怒って地団駄踏んだりします。これが毎日なので結構大変です。ずっとこれが続いた日には、自分の仕事も家事も何もできずにただただ疲労してしまいます。

 

次男を育てていく中で、つくづく人間の脳みそは不思議だなと思います。

次男の場合、物や事象を理解していても、それを外の世界に表現する機能がないんですよね。

(一応次男はまだ子供なのでもう少し発育が期待できるかもしれませんが)

表現したい気持ち(やる気)があるのに、能力が育たない。これは、人間には努力してもどうにもならないことがあるということなのでしょう。

 

そうなると、教育の現場でよく聞かれる「どんなに練習しても覚えられない」とか、「数字を見るだけで嫌になる」とか、「読んでも頭に入ってこない」とかは、あたり前にあり得る話だと言うことがわかります。こういうさまざまな「できない」は程度によって学習障害や発達障害と診断されますが、努力が足りない、やる気が足りない、と言われ続けることもあると思います。でも結局は脳の機能の話で、「やればできる」程度の話ではないのです。

 

子供に「できない」や「苦手」があると、つい(普通の人にとっての)正攻法で克服させたいと思ってしまいます。本当は、人にはそれぞれ「できないものはできない」領域があることを理解し、その人に合った練習方法を探すべきなんですよね。

 

でも、そんなことは綺麗事です。実際はすぐにそんな魔法のような方法は見つからないし、どんなに努力しても全ての人の苦手が克服できるわけではないと思います。子供に障害が見つかると、親はいろんなところで療育いけ療育いけと急かされますけど、療育だって万能ではないです。うちも民間・公的機関問わず散々やりましたからね。算数が苦手な子に100時間教えても得意にはならないでしょう。

克服できる「できない」や「苦手」なんて、ほとんどは療育や特別な訓練を受けなくとも日常生活でできるようになるものだと思います。「できないものはできない」「苦手なものは苦手」を受け入れるべきなのでしょう。

 

それでも、子供達の長い人生を考えた時に、少しでも生きやすくなることを願って、できないことや苦手なことを減らしてあげたいと思うのが親というものです。次男だって、コミュニケーションの方法を少しでも覚えればもっと楽に生活できるのです。そういった親の涙ぐましい努力が大成功を納めることは、多分そんなにないのではないかと思います。賢母によって子供が偉人に育つというのは、子供が最初から優秀だったのでしょう。ヘレンケラーはサリバン先生の素晴らしい指導のおかげで道が拓けましたが、もともと知能が高い人でした。結局のところ、脳の機能を作り変えることはできないのです。

 

それでも、「マシ」にすることはできると思うのです。次男が流暢に喋り出すことは一生ないと思いますが、彼が伝えられることは少しずつ増えていくでしょう。勉強や運動ができない子も、できることを少しでも増やしてあげれば人生を前向きに生きる糧になるはずです。

 

生まれ持った能力を受け入れる「諦め」と、それでもできることをやろうとする「挑戦」

 

両者のバランスを保つことが、「教育」のあり方なのかな、と思いました。

 

 

 

 

 

 

↓Apple Watchを毎日つけたくなるように、ベルトを可愛いのにしてみようと思い買いました。使用頻度が若干上がりました。