タイトルの「見逃し力」。

これは私の造語(と言いつつすでに誰かが言っているかも)なんですが、私が育児をする上で大事にしていることです。

私の育児歴は12年ほどですし、育児が成功するか不成功に終わるかはその子が寿命を全うするその時までわからないと思うので、完璧な理論じゃないとは思いますが、結構カギになっている気がしたので、今日はこの「見逃し力」について書きます。

 

「見逃し力」とは、文字通り、子供のやることなすことが好ましく無くても見逃してやることです。

最近の風潮として、子育て全般がとても丁寧になっていますよね。丁寧なのはとても良いことですし、子煩悩な親御さんにとっては自然なことだと思います。ですが、子供には放っといても成長する部分、放っといたほうが学べる部分があると思っています。

 

我が家には3人の子供がいます。長男はボンヤリ系、次男は重度知的障害、長女はちょっとしっかりしている系です。

私が最初にこの「見逃し力」の大切さを学んだのは長男の育児に苦しむ中でした。

 

よその家庭でもよく聞く話ですが、第一子の男の子のノンビリしている率って高い気がします。加えてうちの子は早生まれだったのもありますが、発達は明らかに遅め。歩きだすのも話しだすのも遅く、集団に入れてもワンテンポ遅れているような子供でした。私の両親や夫の両親にとって初孫だったこともあり、幼少期からだいぶ心配されて、いろんなことを言われてきました。「1歳半になっても歩かないのはおかしい、病院に行ったらどうか」「喋り方がいつまで経っても拙い、知能を見てもらえ」「運動神経が悪いのは将来困る。運動教室に入れなよ」みたいなね。ウルセー縁切るぞババアジジイども!って今なら言っちゃうんですけど、新米ママは「どうしようどうしよう」と気にしちゃうわけです。

 

子供と二人っきりで一日中過ごすと、子供の不安な部分ばかり目につき、なんとかしなくてはと常に厳しい目線で接していました。発達にいいと思うもの(絵本や知育玩具)を試したり、色々なところに連れて行ったり、母親(自分)の関わり次第で長男はきっと他の子に追いつくと信じていました。でも、思うような効果はありませんでした。結局のところ、何かを教えても、子供自身にそれを学び取る知能が備わっていなければ、それはほとんど素通りなんだと思います。もちろん全く意味がないとは思いません。ですが、例えば1歳の子に足し算引き算を教えようとしても全く覚えてくれないでしょう。長男にはそんな先取り学習をしていた訳ではありませんが、私が頭の中で思い描いていた理想的な「子供への働きかけ」「母子の交流」を実践しても、幼少期の長男には素通りでした。私は頑張った成果も得られず不安が募り、外野の意見に日々勝手にショックを受けているような日々を過ごしていました。ほとんど意思疎通ができず、車ばかり気にしているような子だったと思います。

 

幼稚園に上がっても相変わらず発達の遅さは気になっていましたが、私もいい加減ノイローゼっぽくなってきたのと、下の子が生まれたために、「とにかく健康に幼稚園に行ってくれればいいや、本音を言えばなるべく長く行っててほしい!」と思うようになりました。文字に起こすと最低ですけど、長男は発達の遅さに加えてノンストップ回遊系男子だったので、体力気力がもう限界だったんですね。家計が許す限り、ほとんど毎日預かり保育を使って、家ではおやつとテレビでやり過ごしました。知育的な情熱はすっかり冷め、長男はなるようになってくれと思いながら過ごしていたと思います。幼稚園の同級生で賢いお子さんが知育教室や公文教室に通い、お母さんと毎日ドリルをやっているなどという話が時々耳に入ると、惨めな気持ちになっていました。また、発達遅めの子供ってその親も周囲から軽んじられるようなところがある気がしていて、思い描いていたようなママ友との交流もなく、長男がその幼稚さから迷惑をかけないように見張って、いつもピリピリキリキリしている親だったと思います。

 

(続く)