「奏法」というものを教える
クラシックギターを教える上での、私の基本方針は「体の動きに準じた奏法を教える」ことです。
どの生徒にも基本的にはこの方向で教えます。
いわば現代的な奏法ってやつですね。
具体的にいうと、アポヤンドもアルアイレも基本的には同じ右手のフォームで入るように爪の形を工夫する・・・といったものです。
でも、自分の実際の演奏では、少し指を寝かせるアポヤンド、つまりセゴビア風のテクニックなども使っています。
このフォームでしか実現できない音があります。またこれだけでなく、爪のアングル、弦を振動させる方向などによって、様々な音色がでるという部分がギター本来の魅力であり、それは若干基本からはみでた部分であると思います。
右手の独立のためにim交互のアポヤンド練習は非常に有効であると考えています。
ある意味、とても「オールド・スクール」な教え方ではあり、とても重要なものであると思っています。
まあ、分かりづらいかもしれませんが、右手のタッチや左手のタッチに関して、カルレバーロ的な現代的な奏法(嫌いな表現ですが、便宜上使わせてください)とターレガ&セゴビア的なオールド・スクールが存在すると考えてください。
ギター界というものが、そのどちらかに属さなくてはいけないような雰囲気があり、どちらが正しいか?お互い、両派が完全に分離しているという状況があるように思っていました。
しかし、最近、同年代のギタリストと話し合う機会が増えるにつれて、ほんとうにしっかりと演奏できる人は、その両方の派、つまり現代的な奏法(音楽表現を重視)とオールド・スクール(ギタリスティックなものを重視)を分かって上で、各自のスタイルを探し出しているのだと気づきました。
これこそ、私が常々考えていた「奏法のあるべき姿」であるのです。
漠然としたイメージですが、これら相反するかに見える両派の間をギタリストは彷徨わなければならないような気がします。
それが私が思う奏法について「考える」ことです。
そして、その「考える」ことと「教える」内容については、ちょっとした違いがあるように思います。
そのあたりはまた次回。