ベトナムはアジアで唯一アメリカに屈しなかった国として知られています。どうしてホーチミン率いるベトミンは装備では圧倒的に不利だったのに当時の占領国のフランス、その後アメリカにも決して屈しませんでした。それはどうしてだったんでしょうか。以下文字起こし。



のどかなランドン省の風景。1938年に撮影されたフランス領コーチシナです。コーチシナはインドシナの一部でありフランスの植民地でした。

インドシナとはラオスとカンボジアさらにトンキン、アンナン、コーチシナを含む地域を言います。かつてのベトナム王朝です。

何世紀もの間、王朝は中国を しりぞけ独立を保ちました。しかしその後50年以上
フランスに支配されます。

田園地帯にただよう穏やかさとは裏腹に民衆の間では独立への気運が高まります。

およそ40年にわたる壮絶な戦いと苦難の始まりでした。


番組では関係者の証言を未公開のカラー映像と共にお伝えします。これは彼らの戦いの記録です。

1937年、パキスタン北西の街ペシャワールはイギリス領インド帝国の 拠点でした。この頃二人の人物がアジア各地を旅してまわっていました。冒険家のエドワード・ド・ ロスチャイルド。そしてアマチュア撮影家のピーター・トレハーンです。

これは彼らがその時に撮影した70年以上も前の貴重な映像です。長い間公開されませんでした。

1938年11月11日、第一次世界大戦の終結から二十年前のこの日、戦没者をしのんでフランス軍がサイゴンを行進しました。

フランスが4100万人以上の 犠牲者を出した戦争が終わったのは、ちょうど20年前のこの日のことでした。記者のグエン・ラクホアは、式典の見物をしました。


制服姿の部隊はとても印象的でした。銃や勲章が太陽の光で輝き歓声が上がりました。観衆の多くはフランスの恩恵を受けた人達でした。でも地方では事情が違い ました。


1年もたたないうちに再び世界を巻き込む戦争が起こります。


ヨーロッパで戦争が起こると聞いてフランスから解放されることを祈りました。


当時サイゴンでは、いわゆる“いい暮らし”ができました。しかしフランス軍は逆らう者には非情でした。子供時代を南部のメコンデルタで過ごしたゴ・ビンロンは当時をこう振り返っています。


フランスは巡回中に多くのベトナム人を殺し遺体を川に捨てました。水をくみに川に行くと遺体が浮いていました。彼らが憎かった。でも父は言いました。

「憎むべきは植民地政策だ」と。



人里離れた山奥の村では、民族運動への参加者が集められました。


ロンの父親は運動に積極的でした。


父は理想主義者でした。村の農民たちに自分の土地の多くを分け与えるとメコンデルタに戦って教師になりました。父はフランス軍事顧問されました。頭を殴られ肋骨を折られ肺を潰され1週間の命だと言われましたが持ちこたえました。



カンボジアのクラチェにあったフランス軍のプープレック要塞。1938年の映像です。

要塞の建設されたのは産地に暮らす先住民“モイ族”を寄せ付けないためでした。植民地を持つ西欧諸国が信奉した自由民主主義に反発して民族主義者の多くは共産主義思想に傾倒しました。特に旧ソ連のマルクスレーニン主義です。


インドシナ共産党のリーダーは48才能ベトナム人でした。名前はホーチミン。旧ソ連のドキュメンタリー 監督が1954年に撮影した映像です。

インドシナ共産党の設立にあたり彼はこう演説をしています。


間もなく第二次大戦が起こる。そうなればフランスの帝国主義者たちは今まで以上に恐ろしい虐殺を行うおうとするだろう。しかし彼らが行った野蛮極まりない圧政ややアス星矢非情な搾取は、我が同胞を呼び覚ましした。フランスに抵抗するために既に多くの民衆が各地で立ち上がっている。



1941年8月末、オランダ領東インドの首都バタビアにあるカフェです。オランダの軍人がくつ ろいでいます。しかしこの時オランダ本土は既にドイツ軍の攻撃を受けて陥落していました。ナチスはヨーロッパを掌握。一方日本は中国へ侵略し、さらに太平洋地域や 東南アジアに攻勢をかけようとしていました。

世界は変わりつつありました。1942年フランスのビッシー政権は日本の同盟国であるドイツと休戦協定を結びました。そして小規模な戦闘を経て翌年の秋までにはインドシナ全土への日本軍の進駐を承認するに至ります。

ビッシー率いるフランスと日本によるインドシナの二重支配の始まりでした。

ホーチミンの言葉です。


フランス人が臆面もなく日本軍にひざまずき一言の反論もしなかった。その結果、民衆は二重の苦しみを負う事になった。フランスからの侵略者に加えて日本人からの牛馬のように扱うれることになったのだ。一対なぜ私達がこんな悲惨な目にあわなければならないのだろうか。


フランス当局はインドシナを日本軍の監視下に置きました。ホーチミンと仲間の革命家たちはベトナム国境近くの中国の町に逃れます。その中には29歳のボー・グエン・ザップも居ました。


ケイリンにいたときにホーが訪ねてきた。私たちは祖国に戻ってからの活動について話し合った。彼はこう言った。

民族解放の重要性は益々今まで以上に増してきている。民族戦線を組織しよう。名称は“
ベトナム独立同盟会”だが長いから略して呼ぼう“ベトミン”だ。民衆も覚えやすい


潜伏しているあいだにホーチミンはザップに重要な役割を与えました。


ホーは民族解放のための軍事を組織することについて私にこう尋ねた。


お前がやるべきだ。できるか


私が「やります」と答えると彼はこう続けた。


我々は敵に比べてまだ弱い。でも屈してはならない