八坂土藁灰釉 清水志郎 | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。


    志郎さんの作品は過去に一度だけ取り上げさせて頂いた。そのときは、それまでの京焼とは違って、京都の土を自ら掘って作品化するそのスタイルに新鮮さを覚えたのに加えて、形式を壊す傾向にありながらも、そこに確かな芯のようなものがあったことに強い印象を得た。新しい京焼のポテンシャルを備えた作家が登場したとワクワクもした。当然、それからも積極的に作品を追ってきたが、その後ついに、二作目を分けてもらうまでにはいたらなかった。理由は明らか。ギャラリー縄での個展以降、形を崩すそのスタイルはますます激しくなって、あげくは器としての体をなさない作品が主役になるような造形傾向を嫌気したからにほかならない。志郎さんの作品は、主に伏見のギャラリーで毎年開かれるグループ展で拝見するが、いつも今年こそはと大いなる期待をして向かうものの、残念ながら、筆者の狭隘で鈍い眼鏡に叶う作品に出会うことはついぞなかった。

    初めに取り上げたとき書いたように、この方は、技術不足や不勉強であることに開き直り、ナイーヴな感性のままに形式を崩す一連の若手作家とは一線を画す。形式を崩しながらもその向こうに確かな芯のようなものがあって、そこから生じる「守」と「破」の緊張があるからこそ、作品もゆるくてだらしない域に落ちていかずにすんでいた。ところが、伏見で拝見するそれ以降の作品は、「破」のほうを優先し、ともするとこの方の確かな腕前を示す「守」の技の痕跡を消し去ろうとする向きに満ちていた。これでは根拠のない感性のままにろくろを回す作家たちとの違いを敢えて打ち消すことにもなりかねない。志郎さん同様、扱いにくい単味の土にこだわった半泥子には、作家の思いどおりにならずに割れたり歪んだりちぎれたりした作品がまま存在する。そこには成型しようとする作家の意図と自然のままにあろうとする土の意志との葛藤があって、それが作品にダイナミックな強度をもたらしている。単に、土のいいなりになっているだけの安易な惰性はみられない。反対に、作家による形式への強い執着があってこそはじめて実現する強度というべきだ。とてつもない数の茶碗を引いた半泥子だから、その作品には極端なムラがあって、世に出回るその茶碗のすべてが、世間が認める名前ほどの出来かというと、けっしてそうではない。素人の趣味の域を出ない作品の何と多いことか。ただ、後世に伝えられる傑作、とりわけ晩年のあの異形の茶碗たちには、とびきりの目利きだった半泥子の眼と、頑なにいうことを聞かない土との葛藤の痕跡がきまって残されている。それがない、土の主張に負けただけの作品は、たとえ半泥子のものといえども、素人の手遊び以上にはなり得ない。

    今回ギャラリーからいつものグループ展のDMを頂いたときも、割れてしまって器の体をなさない志郎さんの作品が載っているのをみて、さらに過激になっているな、今年もまたアカンかな、と、もはやさしたる期待も抱かずになっていた。ところが、いざ展示されている御作を拝見すると、これまでと違って、こんないい方はたいへん失礼だが、まともな方向を目指している作品がいくつもあって、少なくとも筆者には、あれっ?、少し作風変わったかな、と映った。ギャラリーの御主人にそれを伝えると、「そうですね。志郎さん、元々うまい方なので、ようやくって感じですね。これも、これもいいでしょう。」と共感して下さる。やっぱりそうだ。けっして記憶違いではない。これまで何度も期待を裏切られてきたときの造形傾向とは違って、そこに並んだ作品の多くには、この作家の醍醐味ともいえる確かな芯が通っている。今はもうない大阪の尾崎さんのギャラリーで初めてこの方の作品を拝見したときのあの興奮が再びよみがえる。

    気になる作品はいくつかあったが、写真の藁灰のぐい呑みにはじめから目を奪われた。まずもって、こんな感じの色調には弱い。手に取って眺めていると、御主人が「八坂の工事現場で頼んで分けてもらったそうです。「どれだけほしい?」と聞かれたので軽トラ一杯分といったら「何だ、たったそれだけか。」といわれたと笑ってました。」と話して下さった。ざらついた小粒の石のようなものが混ざって、土の自然な感じが出ているのは、作家の一貫したこだわりの成果というべき。土との反応からか黄色っぽく濁った藁灰も、高台の火色も、味があって飽きない。そして、何より心奪われるのはその造形。高台からゆるっと立ち上がっていく腰の曲線や、口縁の微妙な反り返しはとても優美。べべらのような隆起もアクセントとなっていていい。鉢形に開き気味の高台は、優美な碗をしっかり支えて重力を示す。すべて形式に芯が通っている証だ。これに対して、碗の全体は微かに傾いたり、やや歪んだりしている。高台の削りも、きっちり削り切るというのではなく、むしろ頼りないといっていいほど、雑で粗い。だが、というよりもむしろ、だからこそ、それが芯のある形式に動きを与える。これこそが、芯の何であるかを知る作家がなし得る最も魅力的な表現ではないか。この素敵なぐい呑みを手に取りながら、久しぶりにワクワクしている。これが茶碗がなったらさらにカッコいいだろうなあ。