十文字井戸 吉野桃李 × 山本哲(前編) | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。


    昨年の暮れから、古田織部について考えている。古松さん、松村さん、坂倉さんと、立て続けに恵まれた御縁以降、日増しに鈍くなっていく感性に引っかかる作品との出会いが途切れて、さてこのブログどうしようか、正月休みも近いのでせっかくなら何か書いて過ごしたいとは思ったものの、肝心の対象がなければどうにもならない。仕方ないので、書くほうではなく、何か本でも読んでネタを仕入れることにしようと決めた。そのネタとして思い浮かんだのが織部。昨年から『茶陶のダイナミズム』というくくりで、村田珠光と小堀遠州について書いた。小難しいのと、絵がないのとでビュー数はいっこうに伸びないが、筆者としては、このブログで最も力を入れているテーマのひとつである。現代作家のつくるぐい呑みを買い集めて、好きなお酒をそれで呑むというのが第一義的な楽しみであることはもちろんだが、それらを選ぶときには必ず、作家たちがどのような価値観に基づいてそれをつくっているのか想像するし、その背景に想いを巡らしながら盃を重ねると、酔いもまたいっそう心地よくなる。そのとき、茶陶の展開をめぐる小理屈は必須のアイテムなのだ。

    人並みに齢を重ねてやきものに興味をもつようになって、学生の頃から芸術やその歴史について疑問に思ってぼんやりしていたことのヒントがそこにあることに気づいた。とりわけ、戦国時代ににわかに勃興した侘び茶によって賞翫されたやきものたちは、芸術の発展や創作行為の独自性などの問題に対して、多くの点で示唆に富んだ解を提示してくれる。「道」になった茶の湯、つまり今に続く茶道は、家元制に伴う形式的なイメージが先行するが、その大元にある侘び茶は、その発生から展開、終結にいたるまで、それとは正反対のダイナミズムを内包していた。『山上宗ニ記』で「茶湯ノシヨウ習ハ古ヲ専ニ用スベシ。作為ハ新キヲ専トス。風体堪能ノ先達ニ習ベシ。其時代に逢ヤウニ思案スベシ。」と、利休の忠実な弟子が説いたように、茶の湯は、既存の価値観や美意識を墨守するだけでは完結しない。従来からの規定や先達の教えを学ぶとともに、自らのパフォーマンスにはその時代に合った作為を施すべき。同一性よりも差異を追求することのほうがむしろその本性に合致する。「数寄ト云ハ、違而(ちがって)スルガ(宗)易ノカカリナリ」(『松屋筆記』)。

    この時代に名人と呼ばれた茶人は、きまって自分の茶会で何らかの差異の痕跡を残した。当時、宗ニは名物を所有することが名人であることの条件としたが、歴史のフィルターを通した現代からみれば、そのことにもまして、先人たちとの差異を創造した者こそがそう呼ばれるにふさわしい。『茶陶のダイナミズム』では、その具体例として、たとえば、珠光の「和漢之さかいをまきらかす」があり、遠州のポストモダン的な方法論があることを示した。かれらが体現した差異と同一性というテーマは、そのなかで一部触れたように、創造行為の動機となるものや、思潮と歴史的背景の関係性、モダニズム、啓蒙主義、あるいは平穏な時代における芸術の有り様にいたるまで、今日に通じる諸々の問題を射程内に収めている。それは、つまるところ、今の時代にあって創造行為とは何なのか、そもそも創造すること自体が可能なのか、それでもなお創造行為が絶えないのはなぜか、というより根源的な問題へとたどり着く。それに対する明確な解答があると期待するのは無謀といわなければならない。とはいえ、少なくとも、珠光や利休ら侘び茶人たちが残した足跡には、その謎に少しでも近づくことを可能にするヒントがある。日本の芸術史のなかで、侘び茶ほど論理的な展開を遂げたムーブメントは他にない。だからこそ、それは、いたるところでの応用が可能なのだ。

    筆者の鈍い感性を刺激するのは、その侘び茶が生んだ茶陶の価値観を愚直に追い求める作家たちだ。もちろん、一愛好家の気儘な小理屈をかれらが共有しているとは思っていない。というより、やきものをつくるのにそんなものはいらない。なぜなら、少なくとも、かれらには言葉や思想よりもはるかに雄弁な作品があるのだから。かつて侘び茶が提示した諸問題を作品がいかに語っているか、もっと直載にいえば、そのダイナミズムをいかに捉えて表現しているか、筆者がぐい呑みを観賞する際に最もウェイトを置いている尺度はそれに尽きる。だからこそ、これまで取り上げる作品に乗じて勝手な考えを気の向くままに綴ってきた。それでも、それらは、対象の強度に促されるように発せられた向きが強く、往々にして断片的で、まとまりに欠けている。さらに、最近はアンテナにかかってくる作家もなかなかいない。そこで、まだまだ十分とはいえぬまでも、古作も現代作家もひととおり観てきたこの段階で、その断片たちをいったん整理してみてはと思いついた。『茶陶のダイナミズム』はそんな流れのなかで始まった。(続く)