シリーズ「作家の顔」~西岡悠 (前編) | ぐい呑み考 by 篤丸

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茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

    この夏の「山の日」に、墓参りを兼ねて、西岡悠さんの工房を訪ねた。このブログ用のインタビュー記事の取材が目的だった。「作家の顔」というタイトルでシリーズ化を企図したものの、深見文紀さんの一回目を掲載しただけで、それ以降の掲載は滞っている。最近の目まぐるしい忙しさから、取材に赴く時間も、書く時間もなかなかとれない。だが、そんな言い訳ばかりしていてもつまらないので、チャンスがあればそれを最大限に生かしたいと思って、「ついで」というかたちにはなるが、墓のある豊田から西岡さんのいる美濃にまで足を伸ばした。

    西岡さんの黄瀬戸は若手の作家のなかではピカイチで、作品の出来はもとより、黄瀬戸に対する姿勢において共感できるところがとくに多い。とりわけ、黄瀬戸が中国の青磁や青銅器の流れを汲むやきものととらえて、作品にそれを反映させる表現は、単なる思いつきではない創意を感じさせる。古陶に向かいながら個性を追求するのは至難の技だが、この作家は、その本質を直観的に見定め、それをごく自然に創意につなげている。やきものを語るとき、あまり個性という言葉は使いたくないが、この方の創意にはそう呼ぶしかないところのものがある。いったい、個性というものはそうあるべきではないか。

《黄瀬戸と薪窯》
    西岡さんの工房をお訪ねするのは三回目。工房は土岐市の東隣の恵那市にある。明智光秀の出身地である明智町のすぐ北側といったほうがわかりやすい。初めて伺ったときには道に迷ってずいぶん遠回りしたが、そのおかげもあって、今では、恵那の市街地のある北側からの道も、西側から土岐を抜けて明智に出る道もしっかり覚えた。工房は少し変わった建物なので、県道を飛ばしていても、すぐにそれとわかる。確か製薬会社か何かの施設だったところを工房として使っているとのこと。大きな庭の奥には窯があって、手前にはたくさんのレンガが積み上げられている。


    チャイムに応えて出迎えて下さった作家に、早速、これが例のレンガですか、と尋ねた。この春、作家仲間の鈴木都さんたちと、薪窯をつくるためにこのレンガを安く仕入れたはいいものの、それをトラックで運ぶ際に二回もひっくり返って、あやうく大ケガをするところだったという。

    ー    (作家) 「そうです。ホント、死ぬかと思いましたよ。これだけの量ですからね。都君も僕もよく無事でいられたと不思議なくらいです。」

    確かに、これがトラックからひっくり返ってくるのを想像すると冷や汗ものだ。本当に無事で良かったですね。ところで、その窯づくりは進んでいるんですか?

    ー    「ええ、少しずつ。御覧になりますか?」

    いいんですか?ぜひ!。同じ庭の敷地内のおそらくいちばん南の一角にあるところをみせて頂いたのが下の写真。


    ー    「こうやって少しずつつくってはいるんですが、作品づくりが中心になるので、なかなか進みません。」

    志野に限らず、最近では黄瀬戸をガスや電気窯で焼くのが当たり前になっていますが、そんななか敢えて薪で焼こうとするのはなぜですか?

    ー    「ガスで焼いても薪で焼いても大きな違いがないというのはいえると思います。薪で焼くと、かえって、焼きムラが生じたり、歩留まりも断然悪くなります。僕の場合、ガスで焼いても全滅することがしょっちゅうですからね。それでも薪にこだわりたいのは、大きな違いがないなかでも、微妙な違いはあるからです。焦げのつき方とか、火色の出方とか。何より、桃山のやきものに近づきたいという気持ちが強いですから、当時の陶工がやったのと同じやり方で焼くなかで、新しい発見があるかもという期待もあります。」

    いつ頃の完成予定ですか?

    ー   「 他の仕事で忙しくて見当もつきませんね。今の段階では、コツコツつくっていくとしかいえませんね。」

《やきものの道へ》
    西岡さんがやきものに携わりはじめたのは比較的遅かったんですよね?

    ー    「そうなんです。専門学校を出て二十代の頃はフラフラして遊んでまして、三十を過ぎたくらいから何か仕事につかないとと思って、コンピューター関係の仕事に就いたんです。学校がそれ系のところだったんで。そこで二年ほど働いたんですが、サラリーマン生活がどうしても合わなくて、最後のほうはノイローゼになってしまって結局辞めてしまいました。でも、何か仕事はしないといけませんから、手に職をつけて独りでできる職を探してみたんです。基本的にものづくりに関心があったので、いろいろと体験教室に通いました。家具とか、楽器づくりとかやってみてそれぞれに面白かったんですが、そのなかでやきものがいちばん難しくて、とくに惹かれるものがあったんです。
    ものづくりって最初から最後まで自分の手で行いますよね。でも、やきものって、自分でコントロールできないところがある。たとえば、土から成形していったん窯に入れたら、もう自分の力が及ばなくなってしまう。そんなところが難しくて、面白くて、これなら一生やっていけるなと思ったんです。結局、東京のやきもの教室に一年いたんですが、そんなことを先生に相談していると、先生が「こんなところあるよ」って、瀬戸の窯業訓練校を紹介してくれたんです。」

    それで訓練校に入ったわけですか。美濃焼にこだわりがあって行ったんじゃないんですね。

    ー    「そうなんです。当時は美濃焼なんてまったく知らないし、そこはいわゆる職業訓練校で学費の負担はなくて、とにかく陶芸を身につけようという気持ちだったんです。他のひとと違って自分はスタートが遅いので一生懸命勉強しました。展覧会観にいったり、友だちと工房を借りて学校以外でも練習したり。都君(鈴木)はそのときからの仲間なんです。都君はその当時からやきものや土に関する知識が豊富で、学校で習うよりかれから教わることのほうが断然多かった。その頃から一緒に土を掘りにも行きました。自分の掘ってきた土が形になるのがとても嬉しくて、どんどんのめり込んでいくんです。掘ってくるのは美濃の土ですから、当然それにふさわしい美濃焼に関心が向かっていって、腰を据えてこれに取り組みたいと思うようになったんです。」

《鈴木五郎への弟子入り》
    訓練校に一年通って、それから鈴木五郎さんのところに弟子入りする。

    ー    「瀬戸に行った頃は学校終わったら独立みたいな軽い考えでいましたが、勉強すればするほどこれだけじゃ全然ダメだ、そんな軽い世界じゃない、もっと勉強したいという気持ちが強くなって、どこか弟子入り先を探していたんです。それまで観たいろいろな展覧会から、鈴木五郎さんのあの奇抜な作風に引かれて、その門を叩いたんです。飛び込みでお願いに行ったらちょうど運がよくて、弟子の空きがあったんです。五郎さんは常時お弟子さんをひとりかふたり入れていて、そのときはタイミングよく兄弟子が卒業したところだったようで。何度かお願いに行きましたが、比較的すんなりと受け入れてもらえたのはありがたかったですね。」

    五郎さんといえば、陶芸界の巨人ですが、そこで何を学びましたか。

    ー    「五郎さんから積極的に何かを教えてくれるということはないんです。ただ、入門するときに、他人より何かひとつずば抜けたものを身につければ武器になるから、この世界で戦っていける、自分はろくろを武器にしてきたから、ここにいる間はろくろの勉強をするのがいいだろう、といわれました。それで、窯の仕事が終わったら、毎日二時間ろくろの練習をしなさい、と。窯にいる三年間はそれを実践して、とてもためになりました。
    あと、日曜日は休みだったんですが、山で掘ってきた土を月曜日に五郎さんにみてもらって、これはああすれば使える、こうしたほうがいいんじゃないか、といろいろアドバイスをもらったのも大きかったです。その経験が天然原料を使って作陶するのに何よりの勉強になりました。五郎さんのところには、若い頃から掘ってきた土がそれこそ倉庫幾つ分もあるんです。たぶん、美濃、瀬戸では入ったことのない山がないくらいじゃないですかね。だから、その意味では、僕の学びたいことが五郎さんのところにはすべてあったんですね。」

    お話を伺っていて、西岡さんには、自分の陶芸家としてのスタートが遅かったことからくる負い目をずいぶん感じている印象を受けた。訓練校の仲間に都さんのような異質な存在がいたから、なおさらそんな感情をもつのだろう。確かに、齢(よわい)四十二とはいえ、五郎さんのところを卒業したのが五年前というから、作家としてのキャリアからいえばまだ新米のぺーぺーにすぎない。だが、この方の作品がその時間的なキャリアの短さを感じさせるかというとそうではない。日頃から、作家の履歴にはあまり関心がないので、西岡さんのそれを確認することもなかったが、今回改めて御本人から作家になるまでの来歴を伺って、えっ、そんな短かったんや、と正直驚いた。問題は物理的な時間ではない。たとえば、大きな窯元や有名作家の家に生まれて、幼少の頃からやきものに親しんでいたとしても、それが必ずしもアドバンテージになるとは限らない。そんな流れだけでこの道に入って、半端なものをつくって、外形だけでしか価値を理解できない向きからチヤホヤされている例は五万とある。だが、そんなものは所詮偽物にすぎない。


    工房にはギターがたくさん並べられていて、伺えば、昔はロックンロールにはまっていたとのこと。今でも弾いている様子もあって、同じ音楽好きからすれば、あんな山の中のことだから、さぞや大音量で楽しむことができてうらやましいとも思う。ものづくりには何より感性が求められる。では、やきものばかりをやっているからといって、それが育つかというとそうではない。作家は二十代を遊んで過ごしたというが、実は、そのときの経験が今に生きているのではないか。サラリーマンをやってノイローゼになった経験でさえ、意外にも今の西岡さんの感性をつくっているのかもしれない。他より遅く始めたという不利があるからこそ、他よりよけいに努力しなければならない。そんな負い目からくる焦燥感が、作家を、美濃に来てからの生活のほとんどをやきものに費やして、感性のアンテナをすべてやきものに向けさせた。だが、それを吸収できる素地をつくったのは、実は美濃に来る前の三十年の積み重ねだったのかもしれない。美濃焼も、桃山も、唐九郎も知らずにいたこの方が、これだけの短期間でこれほどの作品をものにすることができるのは、おそらく、その雑多な経験と作家になることへの焦燥感があるからにほかならない。(続く)

※10月20日に篤丸ショップに「西岡悠特集」をアップします。
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