馬町土茶入形 清水志郎(前編) | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。


 ここのところ不義理をしていた大阪のギャラリーから届いたDMの写真をみて、久しぶりに反応した。おっ、なかなかいいな。そこには、楽のような茶碗と水指、あと徳利がひとつ。いずれも、今風に形を少し崩しているが、よくありがちな感性に任せた安易な崩し方とは一線を画しているようにみえた。作家の清水志郎さんについては、これまでまったくのノーマーク。どこのひとだろうと葉書の添文を拝見すると、この方、かの人間国宝、清水卯一さんのお孫さんらしい。ギャラリーの15周年を記念しての今展とのこと。御主人の尾崎さんは、今のギャラリーではまだ15年だが、その前にお勤めになられていたギャラリーも含めると「さて、どれくらいでしょうねえ」というくらい長いキャリアをお持ちである。その間、祖父の卯一さん、お父君の保孝さんの展示を手掛け、そして今回、御自身のギャラリーの記念すべき展示として、三代目の志郎さんを主役に立てた。

 長い時間軸から作家を見詰めることのできる尾崎さんとは違って、筆者が志郎さんに惹かれたのは、作品自体から発せられる魅力をおいて他にない。人間国宝の系譜に連なる家の出だからというのでは、もちろんない。陶芸家、清水卯一の存在とその作品は一般常識程度にしか知らないし、これまで積極的な関心を抱いたこともなく、したがって、作品にも直接触れたことはない。まして、その御子息やお孫さんが陶芸家だったことも知るはずもなく、卯一さんの家系についてはまったくもって無知だった。志郎さんの作品に反応したのは、だから、そんな文脈とは無関係に、いつものように、ただ、DMにあった作品から、良質の作家だけが放つ強度の気配を感じたにすぎない。

 志郎さんの作品を他の多くの作家たちのそれから区別する強度とは何か。それは、この方の場合、作品にしっかりと通っている芯のようなものだといっていい。DMの作品は、形式としてはいずれも今風に崩されているが、その崩れたフォルムからは、崩れていない本来の形式が透けてみえる。光悦風の茶碗には本物の光悦の茶碗の形式が、徳利にも、実用的かつ合理的な道具としての形式が、それぞれに浮かび上がってくる。志郎さんの作品には、いってみれば、眼前の崩れたイメージと、その向こうにある崩される前のイメージとが共存している。洒落っ気を出して形を崩す今風のやきものは、崩れっ放しのだらしないところで終結することが多い。したがって、技術も知識もなくへたに崩そうとすれば、逆に、作家の乏しい力量と勉強不足を露呈することにもなりかねない。それに対して、志郎さんの作品には、初めから終わりまで芯のようなものが貫かれている。そこには、だから、真正な形式にしか備わることのない切れと品がある。だが、DMの写真からだけでは、いまだ気配としかいい得ない。それが単なる気配ではなく本物かどうか確かめるために、尾崎さんのところに久しぶりに出向いたのである。

 「この方はちゃんとしたものも上手なんですよ」と、ぐるりと作品を観て回る筆者の心中を見透かすように、尾崎さんが教えて下さる。「お父さんやお祖父さんが、きっちりとしたものをつくられているから、それに対する反動ですかねえ。こんなに崩しているのは」。なるほど、なるほど、実際に作品を拝見してみて、さらに尾崎さんの解説をお伺いして、確信した。やはり、志郎さん、やきものの形式をちゃんと身につけておられる!それは、おそらく、お祖父さんやお父さん譲りか、あるいはお手本に囲まれて育ったからか、いずれにしろ、茶碗や水指に限らず、やきものにあるべき形式が作家のなかで血肉化されているからにちがいない。それにしても、会場には崩したものばかり。玄関の正面に置いてあった壺も腰の辺りで大きく破れていたし、茶道具も食器も、よくもまあ、これだけ崩したものばかり並べられるものよ、と半ば呆れてしまうほど。尾崎さんが指摘されるように、偉大な先達を意識されてのことか、あるいは、オブジェなんかもされるそうなので、やはりその系統を好んでのことか。そこに強度としての芯を感じなければ、危うく通り過ぎてしまったところだ。(続く)