道東エコツーリズム②釧路湿原編 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

手のひらを広げれば釧路湿原?
 襟裳岬の北の町、広尾町を朝早く出て、日高山脈を背に、とにかく東に東にと向かった。行先は釧路湿原である。140㎞余りあるが、その間ガソリンスタンドがある村は二か所しかなかった。途中で給油したスタンドで十勝毎日新聞を読みながら目の前のセイコーマートが見えたときには文明の恵みに浴せることの幸せをかみしめている自分がおかしかった。
 三時間近く農場や海岸線を通りながらようやく釧路市についた。市の西側に位置する釧路湿原展望台から釧路平野の全貌を見渡した。釧路平野のほとんどが6000年ほど前の縄文時代には海だったという。いわゆる「縄文海進」である。その後水はどんどん引いていったが、それが広い泥炭地を生んだ。湿原を地質学用語で「泥炭地」と呼ぶが、これは枯草が水の中で分解できないまま残った、いわば水浸しの草原である。
 展望台から見ると湿原のあちこちに川が流れているのがわかる。釧路湿原はよく「手のひらを広げて机の上に置いた形」といわれるが、五本の指それぞれが川だとすると、指の先に屈斜路湖や阿寒湖があって、その水が手の甲という湿原に集まると考えるとイメージしやすいだろう。
海岸沿いに高い煙突群が見えた。20世紀の釧路の工業地帯の中心、日本製紙釧路工場である。そのすぐ近く、幹線道路の国道38号線沿いに「鳥取」という地がある。20歳のころ初めてこの街を訪れたとき、山陰育ちの私は「鳥取」という地名に郷愁を感じると同時に驚いた。城の櫓を模した鳥取神社が鎮座するが、明治時代にはその名の通り旧鳥取藩士たちがこのちに移住して湿地を干拓した。つまりこのあたりこそ釧路の始まりの地なのだ。
櫓は資料館になっており、移住者たちが日本のすべての湿地の三分の二をしめるこの泥炭地を農地化するのに使用した巨大なのこぎりなどの道具が展示されており、先人の苦労が偲ばれる。

タンチョウヅルが生き残った理由
ところで釧路湿原といえばやはりタンチョウヅルである。明治時代にはたくさん飛来していたツルも、食用として、またはく製として乱獲にあい、明治の終わりには絶滅したものと思われていた。それが1924年に再発見され、保護されるようになった。その子孫たちが市内西部の丹頂鶴自然公園にいる。柵の中にいるとはいえ、屋根はないので自由に飛び立つことはできる。ちなみにツルは一度つがいになると片方が死ぬまで一緒に居続けるという。
 鶴がこの湿原で生き残ることができた原因として自然環境的要因と人為的要因が挙げられる。自然環境面でいうと、あちこちから豊富な地下水が沸き上がってくるため、冬でも地面が凍らず、鶴の越冬地として最適ということが挙げられる。また、鶴がひなを育てるには少なくとも1㎢の土地が必要だが、ここにはそれが十分にあったことも理由の一つだ。
 また人為的な努力でいうと、実は戦後何度も絶滅の危機にあったのを、その都度人々が救ってきたという歴史がある。戦後まもなくは日本各地から食い詰めた人々がこの新天地に殺到したというが、足を踏み入れればずぶずぶとはまる泥炭地に退散する人も多かった。それでも釧路炭田での労働者は残ったが、1960年代のエネルギー革命により石油と電気の時代が来ると、斜陽産業となった。
 そのような流れが自然を保全することで観光客を呼ぼうという流れの下地となっていった。

塘路湖でのカヤック
湿原の北東に位置する塘路湖に行ってみた。静かな湖畔に野鳥の声が響く。ここから蛇行する釧路川に出て、川を下るカヌーやカヤックのアクティビティがある。以前、茨城県の取手を流れる小貝川でカヤックを息子と楽しんだことがある。国立公園とは異なり、住宅街の近くを流れる川なら環境負荷は少ないと思ったからだが、息子はここでもカヤックに乗りたがった。
が、やはり湖畔を散策するだけにしておいた。ざっと見ていくだけの物見遊山に比べて、奥までじっくり楽しむエコツアーのほうが、かえって環境負荷が大きい恐れがあるからだ。環境に関心のある観光客はエコツアーに参加しないほうが環境破壊につながらない、というのも言いえて妙なパラドックスだ。カヤックやカヌーに乗るだけでは、山を歩くだけではエコツーリズムではない。人間が自然とどう向き合うべきかスタンスがなければならないのだ。
とはいえ正直なところ、私もカヤックから水辺にいるタンチョウヅルを見たい。川の流れのすぐ上という視線で川辺を見ると、それまで見えなかった生態系が見えてくることを知っているからだ。
ただエコツーリズムは美しい景色や珍しい動植物をみることよりも、見ないで残すことを時には選ぶ、ある意味ストイックなものなのだ。また「カヤック乗ったけどツルなど見なかった」という人もいるだろうが、それはツルが警戒してじっとしていたからかもしれない。専門家などは除き、人間の立ち入ってもよい場所と、面白半分で立ち入ってはならない場所があるのだ。

責任ある観光
ツルは、小動物は、植物は思いを口にだせない。だからこちらからこれら小さな命のこころに耳を傾けなければならないのだ。「苦海浄土」では水俣病のため生まれつき言葉の離せない杢という孫について祖父がこのようにいう場面がある。
「杢は、こやつぁ、ものをいいきらんばってん、ひと一倍、魂の深か子でござす。耳だけが助かってほげとります。 何でもききわけますと。ききわけはでくるが、自分が語るちゅうこたできまっせん。」
人間として生まれて、聞こえても話せない少年のこころを聞き取ろうとしたこの老人のように、私たちも草や木や鳥や魚などの声に耳を傾けることを知る。これがエコツーリズムの在り方だと思う。このような考えに基づく旅行形態を、最近は「責任ある観光(responsible tourism)」と呼ぶらしい。
こんなことを言っても六歳児には納得しない。そこで「あそこは鳥さんやつの世界だけん、人間が勝手んカヤック乗って行きたら鳥さんやつが怖がるけん。」と説き伏せた。

細岡展望台
 釧路川沿いの最も有名な景勝地、細岡展望台に向かった。山道をしばらく歩くとパンフレットでみる、原野を蛇行した川が流れる、いわゆる「釧路湿原」がお目見えした。日はすでに傾きつつあり、短い夏の終わりの夕暮れ前に滔々と流れる川は神秘的ですらあった。海のほうをみると、ここからも市街地の煙突群が見える。もしかしたらこの目の前の光景も、工場群になっていたかもしれない、ということを思いだした。
 1972年に「日本列島改造論」を掲げた田中角栄内閣が発足すると、釧路にやってきた田中角栄は上空で飛行機から湿原を見て、「ここを遊ばせておくなどもったいない」といったというのだ。そしてこの釧路も土地をカネにかえる「錬金術」の方法として「開発ありきの自然保護」を進めることになった。
 国立公園指定地域のすぐ外側にゴルフ場が連なるのを見たが、当時は自然保護区域だけをサンクチュアリとし、その他は原則開発するという方向になりつつあった。しかしゴルフ場から流れる大量の農薬が湿原に流入することはだれでも想像できるではないか。湿原というのは山岳の国立公園とは事情が異なり、周辺地域も含めて考えなければならない。
その前年、イランのラムサールでは湿原や湖沼を世界規模で保護する条約が制定された。日本はその時調印しなかったが、条約会議では世界で守るべき湿原の中に釧路湿原もあったという。釧路湿原を乱開発から守りたい市民はそれに関する記事を和訳し、発足したばかりの環境庁に訴えた。しかし日本がようやく批准したのは10年後の1980年だった。

一日に消費額わずか5000円
 80年代は産業開発派と自然保護派がこの地を舞台にぶつかり合っていた。炭鉱の時代は70年代には終わり、80年代を通して全国一の漁獲量を誇った釧路港の漁業を除くと、目立つ産業といえば日本製紙釧路工場ぐらいに限られるようになった。そこで産業開発派は新たな産業を模索していたところに、自然保護派が観光業を新たな産業として提示するようになった。
その布石として1987年に釧路湿原国立公園としてブランド化し、ただ眺めるだけの物見遊山よりも、カヌーやカヤック、観光列車のろっこ号など、お金が落ちるアクティビティで「産業としての観光」を目指すようになった。
80年代には蛇行していた釧路川の一部をまっすぐにすることで流れを早くし、水はけをよくしたが、実はゆったりと蛇行した川のほうが豊かな生態系が維持できるため、ツルの餌とするトンボやバッタ、カエル、ミミズ、川魚なども生育しやすいことが分かった。そこで2007年から2011年にかけて元通りの蛇行した川に戻した。とにかくタンチョウヅルと湿原の光景はこの街に観光客をひきつける目玉となったのだ。
ちなみに豊富な魚介類の切り身を選んでアツアツご飯の上にのせて食べる「勝手丼」発祥の地、和商市場も、市民の台所としてスタートしたが、観光客のグルメスポットとして注目されだした。こうして観光地としての釧路が本格的に整備されたのは90年代に入ってからだった。
釧路を去ろうと思ってあることに気づいた。釧路で息子と一日過ごした消費額は食費を合わせても5000円に満たないではないか。観光業にほとんど貢献していないのだ。カヤックに二人で乗れば、三時間で15,000円ほど。自然環境に対して貢献はしないが破壊もしていない一方、みながカヤックなどの体験型ツアーに参加しなければ地元にお金が落ちない。それでは湿地の保全につながらない。
また、ネット上では着地型ツアーもたくさん見た。個人客を相手にするBtoCを狙う場合もあるが、法人客相手のBtoBならば、都会のツアーの下請け、孫請けになってしまう。観光業と自然環境を考えるうえでの宿題としてとっておこう。(続)