道東エコツーリズム①襟裳岬 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

道東エコツーリズムへ

 直島・豊島を訪れた翌2021年8月、旅友と一緒に6歳の息子もつれてワゴン車で道東を回った。旅の一つの大きなテーマはエコツーリズムだった。それまでの数年間で水俣から阿賀野川、四日市に直島・豊島など、昭和の公害の傷が令和になってもなお癒えない諸地域を歩いているうち、何かしなければという思いに駆られた。そこで通訳案内士という観光業者のはしくれとしてたどり着いた結論が「エコツーリズムの振興」であった。

 2010年代半ばの「爆買い」ブームが一段落すると、「モノ消費からコト消費への転換」が叫ばれるようになったが、その代表的なツーリズムとしてエコツーリズムが注目されてきた。これは業界でSIC(Special Interest Tour)、つまりこの分野にアンテナを張っている人にむけた付加価値の高い少人数旅行である。と同時にガイドの技量が極限にまで試されるものでもある。

日本でエコツーリズムが本格化したのは平成になってからというが、国内で最も広大な自然が残されているところというと道東だろう、と見当をつけて一週間あまり回ってきた。

アポイ岳で地球を感じる

 新千歳空港から南東に180㎞ほど進むと襟裳岬である。途中ずっと日高山脈を横目に海岸線を走っていく。このエリアはそのころ「日高山脈襟裳国定公園」であったが、2022年度からは国立公園となる。日高山脈沿いの様似町には世界ジオパークの中でも「地味な」知名度を誇る、アポイ岳がある。

カンラン石といって、地球の奥深いところにあるマントルが地表にできた山である。ビジターセンターで学んだことだが、地球をゆで卵にたとえると、殻の部分が地殻(深さ数㎞~数十㎞)、黄身が核、その間が人類未到達のマントルであるが、ここはいわばゆで卵の白身が破裂して白身の上にはみ出たような世にもまれな場所なのだ。そこに北海道にいながら「地球にいる」ことが実感できる面白さがある。

ビジターセンターを見学し終わったらアポイ岳東麓の幌満川沿いに遡った。両岸はカンラン岩が露頭している。途中で一車線の未舗装道路となり、なおも遡っていくと幌満川稲荷神社という小さな社があった。そこから眺めると川にオリーブ色をしたカンラン岩がごろごろ転がっている。地球の内部を探検しているようで興味深い。ジオツーリズムというのは地質にこだわることから地球を感じる。一方、エコツーリズムは天地山水を通して地球を感じる。方法は異なっても地球を感じるという意味では親和性のある観光スタイルでといえよう。

襟裳岬のアザラシ

 アポイ岳からさらに南西を目指すと、海岸で長い昆布を干しているのが見える。江戸時代から蝦夷地名物としてアイヌ人がとってきた日高昆布である。特に8月は収穫期であり、朝早くから地元の漁師さんたちは大忙しという。えりも町の郷土資料館ほろいずみでは「こんぶの町」としての郷土を誇ると同時に、特に昭和を通して山を緑化した漁民たちのことも一つのコーナーを設けて顕彰している。 

襟裳岬についた。訪問は三度目だが、いつもながら風が強い。その名も「風の館」というミュージアムに入館した。目の前にまっすぐに岩礁が続くが、これはのこぎり状に凹凸のある日高山脈が海中に入っていき、凹凸のでっぱり部分が海上に見えるのである。岩礁には何匹かゼニガタアザラシが休んでおり、「風の館」展望台の双眼鏡で見ることができる。

天候によるがシーカヤックで近くまで行くこともできたらしい。しかし一般的な観光ならともかく、エコツーリズムという観点からいうと、これには問題がある。人間がアザラシの世界に入っていくことで、彼らの生態に影響を与えるのではないかと気づくことがエコツーリズムの基本だからだ。見たい、と思っても時には抑えるのがエコツーリストのマインドでもあるのだ。

強風と百人浜の植樹事業

風の館では風速25mという強風が体験できる。この近辺ではよくある風力らしいが、まさに飛ばされそうなほどの爆風だ。森進一の代表作「襟裳岬」で日本中に知られるようになった1974年当時、襟裳では二十年以上にわたる自然を取り戻す戦いが行われていた最中だった。それが百人浜の植樹事業である。

百人浜は襟裳岬から北東に数キロ向かったところにある。江戸時代、南部藩士たちの乗った船がここの沖合で座礁し、命からがら上陸した百人の人々も次々と亡くなったため「百人浜」と呼ばれる。明治時代には東北地方から人々が入植してきたが、彼らは生活に必要な木材をここにあった広葉樹の原生林でまかなった。そして彼らはこのサケやマグロ等、回遊魚だけでなく良質の昆布も取れる豊かな海で仕事に精を出した。

しかし植林をせずに伐採を続けた結果、半世紀後には「襟裳砂漠」と呼ばれるほどの不毛の地になってしまった。同時に木々の栄養が雨によって海に流れていたのもなくなり、さらにこの風速25mの激風がむき出しになった赤土を海に運んだため、沖合10㎞まで青いはずの海が赤い海に変わることもしばしばあった。そうなると豊かな漁場だったこの海だが、魚介類も昆布も取れなくなった。

漁師は漁をするもの、というのが常識だろうが、ここの漁師たちは戦後1958年から自ら植樹を始めた。爆風に苗木が飛ばされると、昆布のクズを地表において、防風壁とした。それでも根付かないので北海道には自生しないクロマツを植えると根を張りつつあった。クロマツの大敵である地下水が流れればそれを排出した。みな人海戦術だ。森進一が「襟裳の春は何もない春です」と歌ったのは、漁師たちが懸命に試行錯誤して緑を戻そうとしていたころなのだ。この歌のヒットで全国からここを訪れる観光客が激増した。

 

山の神にお伺いを立てることを知るのがエコツーリズムの「お土産」

襟裳では伝説があった。流氷が来て、去った後は昆布がとれるというのだ。果たして歌のヒットから十年目の1984年、日本各地を豪雪が襲ったが、その時襟裳に流氷が来た。昆布の生育を妨げる雑海藻や砂を流氷が運んでいったからだ。1993年に私は自転車で沖縄から北海道まで4800㎞を走ったが、そのころ百人浜は一面のクロマツ林になっていた。ただし私はそのことに気づいていなかった。エコツーリズムはただの観光客に人間と自然の付き合い方を教えてくれる。それに最も適したのはここのような一度壊された生態系が見事立ち直った場所といえるだろう。

 「森は海の恋人」という言葉があるが、海を豊かにするのは森林の木々のおかげなのだ。直島では亜硫酸ガスで山の木々を枯らし、豊島では産業廃棄物で森をつぶした。漁場としても豊かな瀬戸内海がどのようになったかは推して知るべしである。

 百人浜は今、松の低木林の真ん中を道路が走っているが、私は息子にここが昔なんだったか推測させた。エコツーリズムはなかなか答えを言わない。ヒントを与えて考えさせる。「ブラタモリ」でタモリさんが地元の地質学者にヒントを与えられて答えさせられるようなものだ。学習塾のような知識伝達よりも好奇心の刺激。これがエコツーリズムのガイディングのやり方である。

 「苦海浄土」で石牟礼道子が幼いころ父親に言われた言葉が印象的である。

「みっちん、やまももの実ば貰うときゃ、必ず山の神さんにことわって貰おうぞ」

 木を一本切るにしても、山の神、木の神にお伺いを立てる。加えてそれが生態系を壊さないか考えるようになる。そのようなものの考え方がエコツーリズムの「お土産」ではなかろうか。(続)