直島はアートの島なのか? | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

直島と豊島は「アートの島」?

四日市を訪れた翌2020年9月に瀬戸内海の「アートの島」として名高い直島と豊島(てしま)を訪れた。直島はそれ以前にも訪れたことがあったが、直島からフェリーで豊島に行ったのは初めてのことだった。

初訪問時には「とりあえず」メインとなる観光拠点をぐるりと回ってみた。「泊まれる現代アート美術館」ベネッセハウス。瀬戸内の海や空を背景にタレルやモネ、ウォルター・デ・マリア等の作品を展示した安藤忠雄設計の地中美術館。九軒の古民家再生をとおして地域再生とアート創造を同時に行った「家プロジェクト」など、いずれも見ごたえのあるものばかりだ。

コロナ禍に見舞われる一年前のこの時は、観光客の過半数がアートに関心のある欧米からの訪日客だった。私も現代アートには興味はあった。しかしそれ以上に関心があったのは島の人々の暮らしだ。もっと言うならこの島の人々にとっての関心ごとは何かということが気にかかった。なぜならこの島の20世紀のほとんどがアートとは無関係だということを知っていたからだ。直島町のホームページに町の沿革がこのように書かれている。

大正6年になると三菱鉱業、現在の三菱マテリアル株式会社 直島製錬所が設立され、以来、島は飛躍的な発展を遂げてきました。さらに、平成元年には、福武書店、現株式会社 ベネッセホールディングスが直島文化村構想の一環として国際キャンプ場をオープン。その3年後にはベネッセハウスを開設するなど、文化性の高い島としても発展してきています。

これだけの情報からわかることは何か。「大正・昭和の直島は三菱の企業城下町。平成はそれに加えてベネッセの文化的コロニー。」私にはそのようにしか読めない。人々はこの両大企業をいかに受け入れ、利用し、利用されたかについては言いたくないのか、言えないのか、そこが気になり、香川せとうち地域通訳案内士の講師として香川県に招かれた際、研修コースにはなかったが直島を再訪することにした。

 

直島を山手線にたとえると…

高松港を出港したフェリーが直島の表玄関、宮浦港に着いた。草間彌生の赤かぼちゃが迎えてくれる。下船してSANAA設計の「海の駅なおしま」を歩いてみる。機能第一で開放感あふれる建物だ。小雨は降っていたがレンタサイクルで地中美術館を再び巡り、韓国を代表する現代アーティスト李禹煥(りうふぁん)のミュージアムもはしごしてから町役場もあり、家プロジェクトの中心地でもある港町、本村地区についた。

家プロジェクトとは空き家を内外のアーティストがここに滞在しつつ、島の人々とともに作った作品群であるが、スタッフの方々が明るくおもてなしの精神にあふれている。聞けば英語を話せるスタッフも少なくないという。「アートの島」として知名度が上がった町を誇りに思う人も増え、島に若者がUターン、Iターンで戻ってきて喜ぶお年寄りもいるという。

直島は周囲が28㎞ほどの縦長の島である。周囲約35㎞の縦長の山手線より2割小さいとしておこう。その場合、宮浦港の位置が新宿あたりだとするとベネッセの美術館群は恵比寿から品川、そして家プロジェクトの本村地区は神田から秋葉原あたりになろう。そして私は本村地区からスタート地点の宮浦港、つまり秋葉原から新宿に戻った。

 

アートとゲートボール

出航時間まで40分ほどあったので、港近くの「I♡湯(あいらぶゆー)」という「入浴できるアート作品」に使ってみることにした。外観も内部もオブジェだらけで落ち着かない。ただ刺激的ではある。観光客以外にここで入浴する島民がどれくらいいるのかと思って脱衣所に置いてあった資料を見てみると、島民の利用者は2%ほどという。つまり98%が観光客であったという現実にもかかわらず、ベネッセアートサイトのホームページによると

「直島島民の活力源として、また国内外から訪れるお客様と直島島民との交流の場としてつくられた…」

とある。本来の目的として、観光客と島民との交流が挙げられているが、ほとんどその機能を果たしていない。

この銭湯風アートの近くにはゲートボール場があり、そこでようやく地元の元気なお年寄りたちの会話を聞くことができた。よそ行きの東京言葉や準よそ行き言葉の関西共通語ではなく、島の言葉を生き生きと話していた。やはりアート作品はベネッセや町や観光従事者が言うほどこの島には普及していないのだ。アートに関心の高い層にとっての「島民の声」というのはしばしば観光関連者や「意識高い系」に偏りがちだが、このゲートボール場のお年寄りたちにはアートなどあずかり知らぬ話なのかもしれない。

偶然、住宅の庭が塀越しに見えた。内部の和室が外からもよく見え、掛け軸がかかっていた。これがこの島の飾らない「アート生活」なのだ、と安心した。水俣出身の民俗学者、谷川健一がふるさとをフィールドワークにしなかった理由が、「水俣=水俣病」という短絡的な思考回路を嫌い、「ミナマタ」以前の人々の営みに基づかない「水俣学」を認めなかったように、私も「直島=アート」で終わるのではなく、昭和以前の島民の営みに目を向けたかったのだ。

時間が来たので船に乗り、直島の北側沖合を通って東の豊島に向かった。(続)