「苦海浄土」をもって環境問題の現場を歩くー水俣へ | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

白黒写真の水俣

 「公害」について学んだのは、たしか小学校六年生の社会科の授業だった。教科書の片隅にあった白黒写真の少年たちが煙の中をマスクで登校している様子はまだしも、なによりも衝撃的だったのは手の節が折れ曲がった白黒写真だった。工場が水銀を海に流してそれを魚が飲み込み、それを人間が食べたらこうなった、というような解説だったと思うが、それは私の語彙に「水俣病」が加わると同時に暴力的なまでの強さで「折れ曲がった手」が脳裏に焼き付く瞬間でもあった。

1971年生まれの私にとって、自分の生まれる直前に「公害」という恐ろしい問題があったことは衝撃ではあったが、山紫水明の奥出雲の少年にとって、これはどこか遠くの昔話だった。そもそも80年代の日本はどんな田舎でもカラー写真だったはずだが、教科書でみた白黒写真というのは私が生まれた直前でありながらも何やら戦時中のことと同じくらい昔のことと感じていた。同時進行で苦しむ人々がいるという現実はしらず、ましてや同い年の子どもの中に胎児性水俣病患者がいたことを知ったのは四十代になってからだった。

大学時代、熊本出身者に出会った。熊本のどこかと聞くと、「南のほう。」と答えた。もしかしたら水俣ではと思ったが、それ以上はあえて問わなかった。思うに「水俣病」とは水俣市民にとってあまりに残酷な「病名」ではないか。まるで市民全員があの白黒写真のように手足が折れ曲がっているかのような誤解を生じかねない。

しかし「水俣」というのは地名であると同時に、「強い」人間が自然を破壊し、それが「弱い」人間の命を奪う公害のむごさを世界に訴える普遍的な事象の代名詞でもあるのだ。そしてそれを世に訴えた作品が地元の主婦、石牟礼道子の「苦海浄土」だった。

実は私はこの作品を読むまで、環境問題に対して普通の関心しかもっていなかった。しかしこれを読んでからは可能な限り日本各地の環境問題の現場を歩くようになった。そして「苦海浄土」とほとんど同じ現象が手を変え品を変え行われてきたことに気づいた。今回はこの「苦海浄土」の名言を散りばめながら、水俣から日本中を歩いてみようと思う。

 

 水俣へ

 水俣を初めて訪れたのは、いわゆる「四大公害裁判」からちょうど半世紀たった2017年の暮れのことだった。鹿児島から山道を通って水俣の中心部から南東に10㎞ほど行った湯の鶴温泉で宿をとった。この鄙びた温泉街は公害のような「近代的現象」とはかけ離れた別天地だ。おそらく昭和のころは栄えたのであろうが、投宿した温泉旅館だけでなく周囲もくたびれきっており、朽ちかけた建物も多数あってキツネかタヌキでも化けて出そうだった。私の部屋にいたっては雨漏りが激しかった。

 翌朝霧雨たちこめる中、その温泉街を出発し、棚田や段々畑の間の山道を下っていくと市内についた。いたって普通のどこにでもある小都市だ。ここが戦前1932年から40年近くも有機水銀を流し続けたチッソ水俣工場の企業城下町としてあまりにも大きな代償を伴た、というにはあまりにあっけないほど「くたびれて」いる。

水俣病がなぜ起きたか。それはこの企業のもつ人権無視、環境無視、利益追求を極めた結果だというのは大前提だが、そこまで単純ではない。チッソがなければこの僻地の漁村を活性化させることができないという行政側の大企業追従と、公害におかされる故郷に目をつむってでもそこで働かねばならない地元の人々の暮らしもあった。さらにはプラスチックという当時最先端の素材を作る当時のチッソはそれこそ東大卒のエリートでも入社が難しいとされている「超優良企業」だったからだ。そんな企業が「おらが村」にあるという誇りも問題の本質を見えなくしてしまったようだ。 

 「不知火(しらぬい)海」とも呼ばれる八代海沿岸のエコパーク水俣についた。広く清潔で日本庭園などもあるこの大型公園は、かつて有機水銀を含むヘドロで汚染された場所を埋め立てて造成したところで、市民の憩いの場になっている。この公園の広さは汚染面積の広さを示している。人工的なまでに無味無臭のその公園の周辺には、かつて豊かな海の幸に感謝しつつ生きてきた漁民たちの家が連なっていたはずだ。

「怨」の字の幟

 水俣市立水俣病資料館に入館した。内容は事前に知っているものがほとんどであったが、やはり壁一面のパネルが延々と続くとその重苦しさが違う。なによりこの場所の下が有機水銀で汚染された魚だらけだったことを思い起こすと、不快感が沸き起こる。本で読むだけではこうはいかない。

展示品のなかでも最も強烈だったのは縦長の黒い布地に「怨」の一文字が白く染め抜いてある抗議用の幟である。たとえば「工場閉鎖!」「汚染水放出反対!」「子どもの命を返せ!」等の具体的な要求であれば人のこころの奥深くまで来ないかもしれない。しかし「怨」の一字にはそこはかとない不気味さがある。これは要求ではなく「呪い」だ。「苦海浄土」の一文を思い出す。

「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、四十二人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか。」

 四十二人というのはその時までの水俣病による死者数、六十九人というのはその時までの胎児性水俣病患者、すなわち生まれたときからの水俣病患者の数である。これが被害者の「要求」、いや「呪詛(じゅそ)」なのだ。身震いがしないはずはない。被害者の人間性まで奪わんほどの残虐性が水俣病の本当の恐ろしさであろう。

一方でこのような被害者の言葉も印象的だ。

いままで仇ばとらんばと思ってきたけれども、人を憎むということは、体にも心にもようない。私たちは助からない病人で、これまでいろいろいじわるをされたり、差別をされたり、さんざん辱められてきた。それで許しますというふうに考えれば、このうえ人を憎むという苦しみが少しでもとれるんじゃないか。それで全部引き受けます、私たちが。」

 チッソ側からすればこれほど都合の良い、おめでたい人たちはいないことだろう。一方で公害の責任の所在を免罪にしかねないと批判される。しかし結局は「怨」のこころを持ち続けても自分がつらいだけだろう。だからといって「許し」「背負う」という不条理なみちを歩むしかないのもかなしすぎる。公害はあまりに多くの人の人生を破壊したのだ。

 

海の向こうの「浄土」

エコパークは不知火海を埋め立てたものなのですぐ外に内海が見える。向こうに見える島影は、石牟礼道子の生まれた天草諸島だ。彼女は「苦海浄土」で自らの生い立ちをこう述べている。

 「そのときまでわたくしは水俣川の下流のほとりに住みついているただの貧しい一主婦であり、 安南、ジャワや唐、天竺をおもう詩を天にむけてつぶやき、同じ天にむけて泡を吹いてあそぶちいさなちいさな蟹たちを相手に、不知火海の干潟を眺め暮らしていれば、いささか気が重いが、この国の女性年齢に従い七、八十年の生涯を終わることができるであろうと考えていた。」

 海の向こうの「安南、ジャワ、唐、天竺」に、浄土を想っていたのがいかにも天草人らしい。彼女より上の世代の天草は特に貧困の島々で、 東南アジアや中国等に身売りする女性たちが多数いたという。「からゆきさん」と呼ばれた彼女らを取り扱った山崎朋子の「サンダカン八番娼館―望郷」が執筆されたのは「苦海浄土」発表の数年後、1972年のことだった。近代日本の片隅であるがゆえに海の向こうに活路を見出そうとした彼女らも、海の東の九州本土、水俣の地に活路を見出そうとした石牟礼道子の両親も島では暮らしてゆけず、「ここではない、どこか」を求めた天草の「流れ者」だったのだろう。

 天草から来た石牟礼道子にとって、水俣の地は「浄土」であるべき土地だった。そしてそこは「天にむけて泡を吹いてあそぶちいさなちいさな蟹たち」とあるように、人間もカニなどの魚介類も等しく幸せに生きていくべき場だったのだろう。怒りとかなしみに満ちた作品ではあるが、そこはかとなくやさしさも感じられるのは、小動物に対する思いからに違いない。

 

民俗学者、谷川健一

 同時代の水俣が生んだ在野の行動する学者たちのなかに、谷川健一・雁兄弟がいる。弟の雁は在野の文学サークルを主宰し、石牟礼道子を文学の世界にいざなった。

一方、兄の健一は在野の民俗学者であり、一時代を築いたが、どうしてもふるさと水俣に戻れなかった。「水俣=公害病」としてしか見ず、被害者以外の「普通の人」がどのように暮らしてきたかには重きを置かない「一般人」に、「そんなんで被害者の気持ちがわかるか!」とでも言わんばかりに水俣を意図的に避けた兄、健一だったが、それはふるさとへのあふれるまでの想いの裏返しなのだろう。石牟礼道子には「水はみどろの宮」という児童書がある。それにこのような一文がある。

「不知火海という美しか海が、ここからほら、雲仙岳のはしに見えとろうがの。六十年ばかり前、海に毒を入れた者がおって、魚も猫も人間も、うんと死んだことがある。五十年がかりで、自分たちの立ち姿だけで、海に森の影をつくってな、その影の中に魚の子を抱き入れて、育てた木の精の代表が、一の君の位に上がった。命の種を自分の影の中に入れて育てて、山と海とをつないだ功労により、一の君と申しあげる」

 この世界観は民俗学を「神と人間と自然の交渉の学」と定義した谷川健一のことばを子どもにわかりやすくしたようでもある。少年時代はあんなにきれいだったふるさとが穢されたことへの憤り。それに対する自分の無力感。さらに水俣に対する世間のまなざしに対する違和感をつきつめて紡ぎたした民俗学の定義が、「自然を崇め、畏れながらも略奪する人間と、それを回復しようとする人間。そしてそれをじっと見ている八百万の神々との関係」であり、一生をかけてそれを解き明かそうとしたのだろう。

谷川健一といえば沖縄などの南島を主たるフィールドワークの場として来たが、彼が南洋に見たものも「ニライカナイ」という名の浄土だったのかもしれない。「浄」というのは水銀によって穢され、失われる前のふるさとの姿にちがいない。そして「神と人間と自然の交渉の学」という見方はその後の私の環境問題に接する際の基本的な見方となっていった。(続)