猪飼野(いかいの)で感じた「民族」という共同幻想 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

「猪飼野」と打ち込めないWord

 春先に猪飼野のホテルで二泊した。と、先ほどWordで「いかいの」と打ち込もうとしたが「猪飼野」と変換されない。大阪市生野区鶴橋一帯は昭和まで公的に「猪飼野」と呼ばれていたのだが、私が初めてこの街を歩いたのは、巷では昭和天皇崩御から二年も経っていないころだ。

大学進学で枚方市に住んでいた私にとって、大阪で「市内」と呼ばれる梅田やなんばといった繁華街は性に合わなかった。それよりもアジアに関心があった私の食指をそそったのは「日本一の朝鮮人街」鶴橋だった。大阪のクラスメイトに「鶴橋に行く」といったら「お前なんかが行ったらボコボコにされるで」「ヤクザがうようよ歩いとる」「朝になったら金をとられて道端に投げ捨てられていても警察さえ知らんぷりや」などと偏見たっぷりで言うのだが、なぜかそこでボコボコにされたり、道に倒れて警察も知らんぷりの場面を見たり、ヤクザの大群を見たという人はいない。みなまた聞きなのだ。

 

鶴橋にアジアを感じた

そんなとき田舎から父が様子を見に来た。父は二十歳ぐらいのころバス会社に勤めており、鶴橋界隈に短期間すんでいたという。計算してみると吉本隆明が「共同幻想論」を執筆した1968年ごろだろう。父も千円札という大金を腹巻に入れて酒を飲みに行ったらチンピラに絡まれた話などをしてくれた。

はたして二十数年後の鶴橋は、父曰く昭和四十年代の雰囲気そのままだった。自分の若き日々を追想し、堪能しているようだったが、私にとっては「国際市場」とは名ばかりで朝鮮一色の空間が新鮮だった。市場の裸電球のまぶしさや、おばさんたちのけたたましい声や、レンガ色のキムチ、ナムルのどきつい匂いと立小便の後のすえたような匂いが混ざった新鮮な不快感に、くらくらしそうだった。よくわからないのだがなんとなくそこに「アジア」を感じた。

 しかし数時間歩いて店に入ったりもしたが、ヤクザもけんかも倒れている人も見なかった。クラスメイト達は行ったこともないこの鶴橋を、大人たちかにかけられた色眼鏡で見ていたのだろう。

 翌日教室でそのことをクラスメイト達に話すと、「自分、マジでイカイノいったんか?」と言われた。その時初めて私は鶴橋のことを地元では「イカイノ」と呼ぶことを知った。ついでにその響きは極めて偏見が強いので言ってはいけないという雰囲気を伴うことも察知した。

「猪飼野」-猪や豚を買っている野原を連想させるこの地域は、昭和のころの鶴橋の通称だった。父の住んでいたころもそう呼ばれていた。その後1973年に「イメージアップ」のために「鶴橋」と町名が改められた。しかし市内では平成になってもイカイノと呼ぶ人も少なくなかった。その後何かの折に触れ、大阪に行くときには猪飼野を歩くようになった。

 

無造作に共同幻想が重なり合った大阪コリアンタウン

 あれから30年ほどして、今度は私が7歳の息子を連れて鶴橋に向かった。電車が駅のホームに入り、ドアが開くやいなや焼肉とキムチの匂いが車内に入ってきた。これが猪飼野の匂いだ。その晩は猪飼野とは似つかないようなおしゃれでこぎれいなホテルで泊まることになったが、途中の薄暗いアーケード街は昔のままだった。

それにしても2010年代の鶴橋の変化には目を見張るものがある。ところどころ韓流グッズや韓国風カフェに改装した店が並んでおり、日本人の男女比率でいうと圧倒的に若い女性が多い。特にホテルの筋向いにあった御幸森商店街は2021年に「大阪コリアンタウン」と称する、グルメとファッションの街となっている。

 「百済門」というゲートで囲まれたエリアには在日コリアンよりも日本人女性たちをよく見る。翌日人気の少なくなった夜道をぶらぶら歩きながらようやく気付いた。ここはいくつもの相容れない「共同幻想」が無造作に重なりあいっぱなしになったところであることを。

百済・済州と猪飼野

 猪飼野の地は仁徳天皇の時代に豚を飼う渡来人がいたためこの地名が付いたといわれる。後に白村江の戦いの後、亡命百済人が集住したため、この地は百済野とよばれた。府内北西部の枚方(ひらかた)には同じく白村江の戦いの後に朝廷に仕えた百済の王族が朝廷に賜った土地に「百済王神社」が残されていたり、百済から倭国に漢字学習のテキスト「千字文」や「論語」を伝えたとされる和仁の墓なども残され(創られ?)顕彰されていたりする。

王仁といえば御幸森神社本殿脇には2009年に建てられた歌碑があるが、それは王仁が仁徳天皇の即位を祝して詠んだ和歌で、日本語とハングルで彫られている。

「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」

競技かるたの初めに詠われるものとしても知られている和歌だが、百済伝説が色濃いこの地に千数百年の時を経た大正時代、かつて「百済川」と呼ばれていた平野川の河川工事にやってきたのが、5,6世紀に百済に朝貢していた耽羅(タムナ)、すなわち済州島民だった。これが近代においてこの町に在日コリアンが定住するきっかけである。この時点で歴史的な縁とでもいうべきかもしれないが、その時点でこの土地に百済・済州島を見出すこと自体「共同幻想」に思えてくる。古代と近代には千数百年の断絶があるからだ。

 

済州島サラムとは

ところで2022年現在約13万人弱の生野区民のうち、およそ2万人余りが在日コリアンという。最盛期はその二倍はいただろうが、ここまで在日コリアンの集住する地域は他にない。ここで「在日コリアン」という概念も共同幻想であろう。なぜなら彼らのうちの四分の三が済州島サラム(人)で、他の地域でマジョリティの慶尚道出身者や全羅道出身者とは歴史も習慣も言葉も異なるのだ。

そして彼らの多くは日本からの解放後の1948年に米軍指揮下の韓国軍によって共産ゲリラと勘違いされ、命からがら逃げてきた済州島サラムとその子孫であり、その定着先が猪飼野だったのだ。「同胞」であるはずの「陸地サラム」により数万名もの命が失われたのだ。例えるならハワイや南米の集落で「日系人」のマジョリティが沖縄人だとしても、生活文化も言語も異なり、さらに日本軍からも迫害を受けた彼らが「日系人」を代表するには無理があるようなものだ。同じようにここのマジョリティの済州島サラムが全在日コリアンを代表するには無理がある。

 

「統一された祖国」に抱く共同幻想

とはいえ猪飼野という地域は今なお太古から現代に連なる「朝鮮民族」という「共同幻想」を共有する人々に支えられてきたことは事実だ。ただしそれは一枚岩の幻想ではない。今なおこの狭い猪飼野は朝鮮総連と韓国民団によって見えない三十八度線が引かれているからだ。コリアンタウンの横断幕に日韓両語で書いてあった「投票するには、在外選挙申告・申請が必要です」という表示を見たが、韓国籍を取得していない在日コリアンにとって羨望と苦痛が混じったものかもしれない。吉本は言う。

 ある個体にとって共同幻想は、自己幻想に〈同調〉するものにみえる。またべつの個体にとって共同幻想は〈欠如〉として了解されたりする。またべつの個体にとっては、共同幻想は〈虚偽〉としても感じられる。

 これをこの猪飼野に当てはめると在外同胞であろうと選挙権を持ち、国政に関与するのを当然とみて、「統一された祖国」に共同幻想を描く民団支持者から見れば、同法ではあるが別の形で「統一された祖国」に共同幻想を描く総連支持者は自由と民主主義の「欠如」に見えることだろう。

しかし総連側としても民団側を米国帝国主義者の傀儡として経済力をつけた「虚偽」なる存在として見なければ収まりが悪い。さすがに令和の時代にこのような「昭和的」冷戦構造は薄れているとはいえ、こうした見えない三十八度線はこの町のそこここにあるのだ。(続)