吉本隆明「共同幻想論」ー大和に「出雲」を探して | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

船大工の子、吉本隆明

  試しに「戦後最大の思想家」を検索してみたら、「吉本隆明」の名がずらりと並ぶ。私も大学時代に彼の本を手にしたことがあったが、御多分にもれず歯が立たなかった。ただ、彼の本を持っているとインテリに思われるのではないかという浅はかな、誠に浅はかな理由からそれをキャンパスにもっていき、読むふりをしていた。巷では吉本ばななが大流行だった平成初期だが、彼女の父が隆明とは知らなかった。さらにいうなら吉本隆明を小脇に抱えたインテリはその20年前に絶滅していたこともしらなかった。

 1924年に東京の漁師町だった月島で生まれ、佃島の小学校に通った吉本隆明。下町育ちで理系、しかも山形県米沢の工業専門学校を卒業し、東京工業大学電気化学科に入学するも、間もなく勤労動員されていた富山県で敗戦を迎えた。戦後は町工場で働き、労組で戦いつつ詩文を書き連ねたたという「たたき上げ」の経歴が特徴である。

左派でありながら、常に「パンの問題」を考えてきた彼は、「一流大学」を出た文系のマルクス主義者にありがちな、イデオロギーを前面に出すインテリを批判したのも、天草出身の船大工の子であるという階級的アイデンティティによるものだろうか。一方「庶民派」と思いきや、彼の本質は詩人であり、庶民とはかけ離れた思索をする。道理で文章が難解なわけだ。

 大学時代に吉本隆明を手に取ったものの、「積ん読」となって四半世紀が過ぎた。三十代後半にさしかかると、私も「古事記」や「遠野物語」等を読みつつ各地を歩くようになると、改めて吉本隆明の「共同幻想論」に出会うようになった。関連書籍を読むにあたって、しばしば吉本隆明の名が引用されたり話題になったりしたからだ。

それもそのはず、彼の代表作で1968年に書かれた「共同幻想論」は、日本人がいかにして国家の起源を想定するようになったかというテーマを、「古事記」や「遠野物語」を読み解きながら追い求めていくものなのだ。

「日本とは何か」を求めて旅してきた私ではあるが、今回は「日本人はどのようにして『日本』という国を想定するようになったか」を求め、大和と遠野、そして渋谷区を歩きながら吉本隆明の「共同幻想論」を考えてみたいと思う。

「桜井市出雲」の表示

 桜の咲き誇る季節に奈良に向かった。奈良市から南東に車を走らせると、桜井市である。左前に小高い山が見えてきた。全国各地にある神の降りる山を「神奈備(かんなび)の山」というが、大和の国を代表する神奈備の山が三輪山である。黒い大鳥居が門前にたっている。高さ32m以上のこの大鳥居は熊野本宮大社のものに次いで二番目の高さを誇る。しかしまず参拝はお預けにして、山の南側を大和川に沿って東進する。二車線道路をしばらく行くと歩道橋に書いてある地名に目を見張った。「桜井市出雲」。

 私がこの地に関心を持ったのは、歴史家梅原猛氏の「神々の流竄(るざん)」という本を読んでからだ。執筆当時の1970年以前は出雲から大規模な出土物がほとんどなかったことから、「出雲神話の舞台は大和である」と主張した。しかしその後、現雲南市の神原(かんばら)神社古墳からは「景初三年」の号が彫られた三角縁神獣鏡が、現出雲市荒神谷遺跡からは358本の銅剣が、現雲南市加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸、そして出雲大社境内から巨大な柱が相次いで発見されると、さすがにこの界隈の「大御所」も前言を撤回せざるを得ず、「葬られた王朝」という著書を世に送った。

ヤマタノオロチは「ヤマトノオロチ」か?

 とはいえ三輪山の別名が三諸(みもろ)山だったこと、大神(おおみわ)神社の祭神、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は出雲の大国主命の幸魂(さきみたま)、幸魂(くしみたま)であるということ。ここが酒造発祥の地であり、酒の神を祭る神社でもあること、山全体に杉が生い茂っていること、山頂に磐座があるということ、など、出雲、しかも私が生まれ育った現雲南市木次(きすき)町を思わせるものだらけなのはどうしたことか。そして何よりここの地名を無視することはできない。

 ちなみに「三諸山」といえば、木次町日登(ひのぼり)にある室山の別名も「御室(みむろ)山」である。そして三輪神社の東には神が宿る磐座があるというが、日登の室山にも「釜石」という磐座がある。そしてその釜石はスサノオノミコトが八岐大蛇を退治するために酒を飲ませて酔わせたところを刀で斬りつけたときに酒を醸したところというが、大神神社では祭神の大物主大神を篤く奉ったという第十代崇神(すじん)天皇が神に捧げるために酒を醸したという。なお「三輪」の枕詞は(美酒(うまさけ))である。

さらにいうならばヤマタノオロチには体中に杉の木が生えていたという記述が「古事記」にあるが、雲南市のオロチの首塚は八本杉という杉が生えている。「ヤマタノオロチ」は「ヤマトノオロチ」だったのではという投げかけは、私には十分すぎるほど興味深い。

 このような三輪山であるから、たとえ「言い出しっぺ」の梅原猛が後に否定したとはいえども、ここが本来の出雲の「本丸」なのか、あるいは出雲から移住者たちがここに移り住んだのか、いずれにせよ気になる。ハンドルを握りしめて細い山道を登り、山頂の磐座を目指したが、表示がない。民家の方々に聞いても分からず、仕切りなおすことにした。

 

三輪山に祭られた出雲の神と「共同幻想」

 本殿はなく、山そのものを神としてあがめる大神神社を参拝しながら、改めて気づいたことがある。ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトは、元祖出雲の神でありながら、三輪山と深い関係はなさそうだということである。そもそもなぜスサノオは高天原から追放され、出雲に降り立ち、オロチ退治をすることになったのか。それは「天つ罪」、すなわち田畑を破壊し、動物の皮を生きたままはぎ、神聖なる場に糞尿をまきちらすという罪を犯したからである。これは農村社会においてあるまじき蛮行であったため、出雲に追放されたという。そしてその子孫たちが祭ったのがこの大神神社ということになる。これについて吉本隆明曰く、

大和朝廷勢力以外にも、すでに出雲系のような未体制的な土着の勢力がいくつもわが列島に散在することはかれらにも知られていた。それだから大和朝廷勢力はかれらの〈共同幻想〉の担い手の一端を、すでに知られている出雲系のような有力な既存勢力とむすびつける必要があり、それがスサノオの〈天つ罪〉の侵犯とその受刑の挿話となってあらわれたのである。

 ここでいう「共同幻想」というのは、「国家」そのものが幻想にすぎないというのが前提だが、それは人々がたとえ「個人の幻想」を犠牲にしても求めてしまうものだという。つまりヤマトを中心とした古代王権の配下にも各地方勢力がうごめいていた。その中で最大勢力だった出雲を取り込み、神奈備の山に祭ることによって、少なくとも南日本を除いた西日本を「ヤマト王権」とし、その他の勢力もヤマトに取り込もうとしたということだろう。しかし出雲を単に神聖なものとしておくのではなく、この世に降りてきた「罪びと」として描くことでこの王権の体面をはかった、というのが吉本の見方だ。(続)