五島列島でキリシタン・ツーリズムは可能か | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

日本最西端の藩、五島藩

 長崎港から五島列島最大の町、福江港に向かった。フェリーに乗船するや多くの人が毛布を敷いたりかけたりして横たわっている。「これは揺れるぞ」と直感で思った。そこで仲間とともに車座になって、港のスーパーで買い込んだ総菜や寿司で焼酎を一杯やっているうちに、「飲酒組」は気分がよくなってくるが、「ノンアルコール組」は気分が悪くなってきたようで横になりだした。

 乗船後三時間あまりでようやく福江についた。暖流対馬海流のため冬でも暖かいと思っていたが、夜の海風がとても強く、東シナ海の荒海を感じさせられた。

 翌朝ホテルの窓から町を見下ろす鬼岳がよく見えた。朝食をすますと日本最西端の城下町、福江を歩いた。五島氏の居城で、海防目的で幕末に築いた「日本最後の城郭」の石垣が立派である。現在は城内のほとんどが高校のキャンパスになっており、城の中のなかなかないユニークな学校だ。

 ちなみに五島藩は島原の一揆勢を抑えるために藩士たちを送り込んだ。一方、島のキリシタンたちの中は一揆勢に加わりに行く者もいた。同じ島の人々が遠く離れた島原で敵味方となったのだ。ちなみに藩はある程度の手柄はたてたが、特に褒賞はなかった。一方のキリシタンはみな殺されたはずだ。

武家屋敷街などを通って、城郭の形をした三階建ての五島観光歴史資料館に向かう。1989年、つまりバブル真っただ中の頃に建てた、いかにも自己主張の強そうなコンクリート櫓(?)だ。ここでは五島、すなわち中通島、若松島、奈留島、久賀島、そしてこの福江島の歴史や民俗資料、地質関連資料などが一カ所で分かるようになっている。

 

久賀島

 港からフェリーですぐのところの久賀島についた。小さな港だが、ジャンボタクシーに乗って島の反対側の旧五輪教会堂に向かった。40分ほどの道のりだが、最後の10分ほどは一車線道路である。しかし運転手さんに言わせれば滅多に対向車はないらしい。曰く、自分の家は曹洞宗らしいが、幼稚園はキリスト教で、キリシタンの子どももいた。子どもの頃からキリシタンの島というのは知ってはいたが、近くに住んでいてもこの教会には行ったことがなかった、とのこと。世界遺産に登録されてから多少観光客は増えたが、観光業者はやはり対岸の福江に集中しているらしい。

 教会堂近くの駐車場に到着した。そこから未舗装道路の山道と海岸の防波堤を十数分歩くと、お目当ての教会堂である。十字架がなければ田舎の昭和風公民館かと思うようなところだ。五島列島は今もクリスチャンの比率が極めて高い。しかし福江のような大きな町ではなく、田舎の、交通の便が極めて悪いところに集落が集中している。というのも江戸時代に福江藩が新田開発をするのに人材が必要となり、「向こう岸」の大村藩に移住者送り出しを要請したところ、海を渡ってやってきた人の多くがキリシタンだったのだ。その数三千人ともいう。

 大村藩といえば1657年からの郡崩れでキリシタン大弾圧があってから、東シナ海に面した外海(そとめ)地区等を除き、キリシタンも潜伏が極めて難しくなったところである。それから140年たった1797年、第一陣108名が到着した。彼らからすると旧約聖書にある「出エジプト」の再現におもえたことだろう。エジプトで奴隷にされていたイスラエル人の中でリーダーのモーセに従い、エジプトを脱出しようとした。立ちはだかる紅海を前に、モーセが人々を導くと、海が真っ二つに割れた。その道を同胞たちに通らせて向こう岸に到着した。外海のキリシタンたちもまるで海が割れて逃げられたかのように、東シナ海を小舟でわたったのだろう。それまでは小舟があっても他藩には行けなかったのだ。

「約束の地」も「聞いて極楽見て地獄」

 「約束の地」カナンは「乳と蜜の流れる場所」というが、五島列島を「約束の地」と見たに違いないキリシタンたちのここでの生活は「聞いて極楽見て地獄」だったのかもしれない。確かに宗教的弾圧は大村藩より福江藩のほうが緩かった。「人はパンのみにて生きるにあらず」とイエスは言うが、「人は宗教のみにて生きるにあらず」というのも真理である。彼らは極めて辺鄙なごつごつした岩肌ばかりを与えられ、開拓させられた。もちろんすべて人力である。

 そういえばモーセに率いられたイスラエル人たちも、逃げた先で食べるものもなく、「こんなことならエジプトのほうがましだった!」と悪態をつく者も出たという。モーセはこれに対し、苦い水を甘い水に変え、空から賞味期限は極めて短いが「マナ」とよぶパンのようなものをふらせて皆に与えた。さらには彼らが守るべき「十戒」を授かった。一方五島にやってきた外海の人々は、貧困にあえぎ苦しんだ。ただ神を信じる自由は多少与えられたが。

 旧五輪教会堂は1881年に港のすぐ近くの浜脇教会の建物だったが、1931年にこちらに移築されたものだ。そして1985年に現在の教会が隣接する土地に建てられると、海端だけあってどんどん朽ちていった。これを文化財としようと運動を起こしたのは、意外にも島の非クリスチャンだった。

 内部は静かである。都会からやってきた「教会守り」の若者が色々と説明してくれる。この朽ち果てかけた、それでいてきれいに、大切に守られている教会に、外から冬の午後の光がステンドグラスを通して入ってくる。しかし納得いかないところもある。ここは世界遺産だが、もはや教会としての機能は果たしていない。教会で最も大切なのは建築ではない。神とそれを信じる人々をつなぐ場が教会ではないのか。そして隣にたてられた教会こそ、現在その役割を果たしているが、観光客は写真一枚とりさえしない。

 駐車場に戻って次の目的地の牢屋の窄(さこ)教会に向かった。

12畳に200人以上の生き地獄

キリシタン関連の史跡で、残酷な場所は多々ある。しかしこの牢屋の窄ほど想像にストップをかけたくなるほどの場所は他にない。意外にも江戸時代はこの島のキリシタンたちは目立たず過ごすことができた。離島ならではの事情もあるのだろう。また、だれがキリシタンかなどは実は自明のことだったようだ。しかし目立つことをしない限りは黙認だった。貧しくとも表面上平穏な島に悲劇が起きたのはむしろ明治に入ってからだった。

 1868年、「五島崩れ」が起こったのだ。この島でもキリシタンが捕らえられ、わずか12畳の牢獄に200人以上ものキリシタンが詰め込まれた。一畳あたり17名という、ありえない狭さだ。窒息したものもあれば、立てなくて倒れたら、踏みつぶされて圧死した者もあった。もちろんトイレなどない。

 現在、その場所には42の慰霊碑が建てられているが、それぞれの年齢を見るとわずか数歳の子どもたちが数多く、胸が張り裂けんばかりだ。例えば6歳の子が「アップ水アップといいながら かわきのため死亡」。12歳の子が「蛆に下腹をかまれて死亡」。11歳の子が「これからパライソに行くから 父さんも母さんもさようなら」。パライソとは天国のことだ。この生き地獄が八か月も続いたのだ。聞くだけでやりきれない。その日は7歳の息子を連れていた。うちには3歳の娘もいる。そんな子たちも殺されていったのだ。それに対して祈る以外に何もできない親の気持ちは想像すらできなかった。

 夕方になった。港に戻って小さな船で福江に戻った。さすがにここは「祝世界遺産登録」という横断幕はない。あったとしたら、この凄惨すぎる事実をどう世界に知ってもらうかという意図があるのだろうか。

 

奈留島の「かわいい」江上天主堂

翌朝、福江港からフェリーで奈留島に向かう。ここはキビナゴ漁で利益を上げたキリシタンたちが江上地区に天主堂を建て、それが世界遺産に登録されたので、EV車のレンタカーで向かった。道路わきのアスファルトの駐車場から徒歩1分で行け、実にアクセスが良い。公衆トイレも完備している。

前日の久賀島の衝撃があまりに大きかったからだろうか。クリーム色と水色できれいに「化粧直し」をしたパステルカラーの江上天主堂はまず「かわいく」見えた。月に一度しかミサはしないだけでなく、その日は閉館日だったから内部は見学できなかったが、五島列島のシンボル、ツバキをあしらった彫刻があちこちに見られたり、ガラス窓にもツバキが描かれていたり、教会裏手のひさしに十字架型の切込が入っており、朝日が昇ると十字架型の影が現れるという信仰を伴う遊び心なども「安心して」見られた。

ちなみに設計者は九州各地の教会を設計してきた鉄川与助である。戦後の浦上天主堂の他、世界遺産建築では天草の﨑津天主堂、上五島の頭ヶ島天主堂など、多数手がけている。しかしこのフォトジェニックな世界遺産の教会がインスタグラムなどで拡散し、観光客が多く訪れても何の意味があろうか。世界遺産は観光資源になりえるが、それとは別次元で人類にとって真に価値のあるものはなんであるか、問いかけ続けているからだ。

江上集落を離れてから、島のジオパークをまわった。特に城岳展望台から強風に吹かれながらもリアス式海岸の絶景を見ていると、キリシタンにだけ偏っていたらここの本当の良さが分からなくなることに改めて気づかされた。奈留島であるまえに、五島であるまえに、長崎県であるまえに、日本であるまえに、ここは地球であることを分からせてくれるのがジオ・ツーリズムなのだ。しかし同時にキリシタン関係を歩きすぎたのか、この地球も神が造ったのでは、と思えてきたりもする。

みかん屋食堂という寅さんでも立ち寄りそうな雰囲気の大衆食堂でちゃんぽんを食べて上五島の中通島に船で向かった。

 

頭ヶ島天主堂

中通島では地元の博学なガイドさんにお世話になり、島に関するあらゆることを教えていただいた。まずは島の北部、有川の鯨賓館ミュージアムに向かった。ここはかつて捕鯨で栄えた町として知られており、1700年前後の21年間でなんと1312頭もの鯨をとったという。毎週一頭以上の計算になる。さらに戦後も南氷洋などにも多くの島民が遠征していた。すぐ近くには海童神社という小さな神社があるが、鳥居は鯨の肋骨を使用しているくらいで、島の人々の鯨に対する思いが見て取れる。

鯨賓館でも捕鯨以外にキリシタン関係、特に世界遺産登録されている頭ヶ島天主堂などのコーナーも充実している。事前に予約していたので島に向かった。五島では世界遺産の教会を見学する際は事前予約が必要なのだ。島とはいっても現在は橋でつながっている。くねくねした道を下るとキリシタン墓地が見えてきた。その先がこれもまたきれいに化粧直しした天主堂がお目見えした。鉄川与助の石造りの天主堂は実に堂々としている。

この島は天然痘患者を隔離するための無人島だった。しかし五島崩れが起こった1868年の翌年、難を逃れてこの島にやってきたキリシタンたちが開墾し、定住したところに聖堂ができたのだ。現在のものは1910年から9年間かけて、信者たちがこれら一つ一つの石を切り出し、運んできて作ったのだ。気が遠くなるような話だ。彼らの先祖も大村藩から中通島に渡ってきて、さらに頭ヶ島に逃げ延びた。なにやらあちこち迫害から逃げ延びたユダヤ人たちをほうふつとさせる。

神と先祖のはざまで

 それにしても、外観はもちろん、内部も美しい教会だ。しかしここを「見学」している自分自身に居心地の悪さを感じた。

かつては島の人口のほぼ全てが隠れキリシタンの子孫だったが、この教会に通うということは隠れキリシタンから「グローバルで普遍的なクリスチャン」になったことを意味する。ただ禁教が解かれてからも二世紀半にわたる我が家、我が集落の信仰を守ろうとした人々も一部だがいた。カトリック教会に通うということは、先祖とのきずなを失うと思っていたからだ。明治以降の隠れキリシタンはキリストの教えよりも、オラショ(祈りの言葉)を通じて神だけでなく先祖とのきずなを確かめていた。

さらに複雑なことだが、先祖の中には殉教した人もいたかもしれない。とすると、殉教者とのつながりを保持するのはキリシタンとしてもあるべき姿なのかもしれない。ただなによりも、カトリックになれば先祖の仏壇を廃棄する問題がある。神と先祖の間に立たされたのだ。

しかし平成になってからはムラ単位で隠れキリシタンをやめるところが出てきたという。理由は過疎のため続けることができなくなったからだ。個人の宗教であるべきキリスト教が、ここでは檀家か氏子のように「参加」しているのは興味深いところだが、江戸時代から昭和まで三百五十年間結束して守ってきた信仰なのに、わずか五十年ほどの過疎化によってそれを崩壊させてしまう現代という時代に恐ろしささえ感じる。しかし現に、島には産業に乏しい。離島だけに交通の便が悪い。

五島を歩きながら考えた。五島は近代のあり方について考え直すヘリテージ・ツーリズムも可能ではないか、と。しかしキリシタンの子孫からすれば余計なお世話だろう。例えばオラショをショーにして実演して得たカネで幸せになれるのか。例えば「十字架体験」などを考案して、十字架に一時間かけて料金を取る、などというビジネスが受け入れられるのか。牢屋の窄(さこ)の近くで集まった観光客を12畳の部屋に詰め込んで体験ツアーをして倫理的に問題はないのか。西坂で殉教した26人の形のせんべいを作って「殉教せんべい」として売りだしても悪趣味すぎる。

世界遺産で商売できる場合とそうでないときがある。とはいえ人類の犯した罪(キリスト教的意味合いではなく)を振り返るためのツアーはあってしかるべきだと思う。今さらながら、なぜ長崎市の電車内で、大浦天主堂のポスターに「祝世界文化遺産登録」の文字があって違和感を持ったかが分かってきた。クリスチャンではない私はキリシタン迫害の事実を前に、どう受け入れればよいか、どう対処すればよいか分からず、途方に暮れていたのだ。五島列島で重い宿題を与えられたまま、翌朝「本土」に戻った。(続)

 

 

 

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