東大寺大仏殿は「チームラボ」のパラレルワールド? | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

東大寺―天平文化はごくわずか

 奈良を訪れる訪日客が一カ所だけしか寺社を訪れる時間がないとすれば、ほとんどの人が東大寺を訪れるだろう。「奈良の大佛」のインパクトはそれだけ大きい。ただ、境内の北側にある宝物殿として使われた校倉造の正倉院やその西にある転害門等を除けば、現在みられる伽藍のほとんどが奈良時代のものではない。

 例えば伽藍に入ると我々を迎えてくれる日本一ダイナミックな南大門も鎌倉時代のものだ。運慶・快慶作の筋骨隆々な金剛力士像はもちろん天平文化のものではない。オリジナルは平氏による南都焼き討ちのさいに焼失した。これは東大寺側にも問題がある。寺にたてこもる僧兵たちに対して当初は平氏も気を使っていたのだが、丸腰の使いの者六十名余りが僧兵たちに惨殺されたことが南都焼き討ちの引き金を引いた。

 鎌倉時代に入ってから宋に三度も留学した国際派、重源が、勧進職に就任すると、現山口県の山あいにあった木を伐りだし、博多にいた世界的建築家、陳和卿(ちんなけい)をスカウトして建てさせたのが今に見る南大門だ。

 華厳宗とは

 東大寺の宗派を華厳宗であると即答できる人は多くあるまい。なぜあれほど有名な寺でありながらその宗派が知られていないかというと、おそらくそれこそが奈良佛教の特徴だからだろう。奈良佛教は鎮護国家、すなわち国家と国民の安寧を願うための施設であり、また佛教という哲学を研究する「哲学インスティテュート」だったため、「奈良の大佛さん」と親しまれてはいても、真宗のように熱心な門徒(=ファン層)がいるわけでも、禅宗のように日常生活の一部として坐禅を取り込んだりするものではない。

 それでは華厳宗とはどのようなものなのか。これは三世紀ごろに北インドからシルクロードあたりで発生したとされる「華厳経」に基づく宇宙観である。これは正式な漢訳は「大方広佛華厳経」というが、金鐘寺(東大寺の前身)の僧、良弁(ろうべん)が新羅で学んだ審祥(しんじょう)に華厳経の講義を依頼したのが始まりだという。これは「悟り」以上に「大方広佛」、つまり「はてしなく大きな佛」の存在を思う宇宙観が皆をひきつけたという。

 大佛殿に向かう時、時には中央の観相窓から廬舎那(るしゃな)佛の顔が少しのぞいている。我々が大佛を見るのではない。果てしなく大きな廬舎那佛が我々を見ているという逆転現象を印象付ける。

大仏殿の中はパラレルワールドの大宇宙

高い敷居を越えて大佛殿の中に足を踏み入れると、黒光りする廬舎那佛を中心として丸い後光に十数体のほとけが囲んでいる。これは大宇宙だ。廬舎那佛を太陽とたとえるなら、周りに水金地火木土天…と惑星が回っていくように大宇宙が立体的に広がっており、見る者をその宇宙の中に引きずり込むのである。そしてこれこそが「立体華厳経」なのだ。

「華厳経」では「この世の他にもパラレルワールドがあり、そこに廬舎那佛というブッダがいる」と考える。それだけなら浄土教と変わらない。しかし浄土信仰は死後の話だ。華厳経は今生きている世の中と同時進行で佛国土が存在するというのだ。しかし我々はそこに行けない。なぜなら一つの宇宙には一つのブッダしかいないため、阿弥陀如来と違って廬舎那佛はこの世界に迎えに来てくれないからだ。そこで出てきた考えが「バーチャルな佛国土」である。つまりバーチャルなオンラインサロンで会話を楽しむように、体はこの世界にあっても、廬舎那佛がバーチャルな佛国土の様子を我々に見せてくれるというのだ。これによく似ているのがデジタル・アートでこの世にはない世界を再現する「チーム・ラボ」だろう。

今この大佛殿で見ているのは、まさにチーム・ラボで作った佛国土というわけだ。ただバーチャルだと隔靴掻痒の感もいなめない。しかし華厳経では現実とバーチャルの区別をつけない。例えばオンラインで振込みしても相手の口座に着金するようなものだ。現実とバーチャルが紐づいているのが華厳経の考えという。つまり私たちが見ているこの壮大な佛国土は、本当の廬舎那佛と紐づいているのだ。

 

一即多、多即一

ここを訪れる人たちはみな廬舎那佛ばかりに注目するが、周りにいる十数体のほとけたちにも注目してほしい。華厳宗では「一即多、多即一」という言葉を大切にする。これは「一つと思ってもたくさん、たくさんと思っても一つ」というなにやら禅問答のような言葉に聞こえる。ただ例えば「奈良の大佛」というと廬舎那佛一体をイメージするが、よく見ると周りの十数体の「衛星」のようなほとけたちと一体である。これが「一即多」の意味だ。そして私たち一人一人があの「サテライト佛」だと想像してみよう。すると十数人の「衛星佛」で廬舎那佛を囲み、そして大きな一つの「奈良の大佛」を形成している。つまり「多即一」なのだ。

奈良の大佛さんはデカいだけではない。このバーチャルなパラレルワールドで、私もあなたも両親や祖父母、先祖から命をもらっているという意味では「一即多」だし、私たち一人ひとりがこの一つの世界を、宇宙を構成しているという意味では「多即一」であることを教えているのだ。

 

行基と辛国神社

大佛殿から東の丘陵地帯にある法華堂を目指すと、途中に辛国神社という小さなお社がある。「辛」=「韓」、つまり「韓国神社」のことではないかと思うのだが、この寺も実に朝鮮半島と縁が深い。大佛建立の立役者で渡来系というと、まずは先述した百済系渡来人の子孫で開山となった良弁が挙げられる。そして出自は不明だが、この地で初めて新羅で学んだ華厳経を講義した審祥(しんじょう)も挙げられ、彼も渡来人と言われている。そして最大の立役者は百済系で「千字文」や「論語」を伝えた王仁の子孫らしい行基である。

そのころ聖武天皇・光明皇后夫妻は佛教を篤く信じていた。そこで都に東大寺、各国に国分寺、国分尼寺を建立しようとした。この鎮護国家の佛教寺院が華厳宗の本家本元であるのは納得がいく。なぜなら聖武天皇が目指した国家とは、中央の奈良に天皇、各国に都から国司を派遣するという中央集権国家であるが、これも天皇=奈良=廬舎那佛、国司=各地方=サテライト佛という構図に当てはまる。都に東大寺、諸国に国分寺と国分尼寺を建てたのも全く同じ構造だろう。

当然のことながら庶民には関係のない、いやそれどころか増税のみ負担させられる迷惑極まりない国家プロジェクトだったに違いない。協力者もいないなか、天皇が目をつけたのが行基だった。正式な僧侶の集団とは認められないながらも、各地で土木工事をしたり福祉事業を展開したりしていた彼は、庶民から絶大な支持を得ていた。そこで彼を口説いて庶民の力を借り、大佛殿および大佛を建立させたのだ。

大佛の後方には創建当時の大佛殿のレプリカが置かれているが、現在のものよりさらに大きい。これは聖武天皇というより、行基の教えを通して佛国土の存在を信じた人々の奇跡的な力だったに違いない。

そして歴史の陰に隠れてしまったが、半島から渡来してこの国家規模の寺院を造営し、今に伝える礎となった渡来人たちのことを思い、私は東大寺を訪れるたびに辛国神社に詣でる。

法華堂からミュージアムへ

東大寺の東側は丘陵地帯にある法華堂は、奈良時代につくられた部分と鎌倉時代に付け足した部分が見事に融和した面白い建築である。2011年まではここで天平時代の至宝、不空羂索(ふくうけんじゃく)観音像と脇侍の日光・月光菩薩像が拝めたが、その後、南大門外側に東大寺ミュージアムができたため、このほとけたちも佛堂の主からミュージアムの展示品に「格下げ」されてしまった。

不空羂索観音像は四十本の手に、実に様々な道具を持ち、その道具で我々を救ってくださるという。つまり我々の悩み苦しみはそれぞれ異なる。病気の苦しみと愛する者を亡くした苦しみではそのタイプが異なる。苦悩の種類によって異なる道具を持って治して下さるほうが、より信仰心を刺激するのだろう。毎回異なる「悩み」でしがみつくのび太が我々ならば、不空羂索観音とはいちいち異なる道具で対処してくれるドラえもんのように思えてきた。そういえばまるまるとした体型までドラえもんに思えてくる。

そして両脇の日光・月光菩薩像は、今でこそかなり色褪せているが目を凝らしてみるとかすかに赤や緑が残っている。唐の仏教の色彩そのままだ。この三尊がかつていかに輝かしかったか想像に難くない。日光・月光菩薩はシルクロードの敦煌・莫高窟のほとけに実によく似ている。天平のほとけのグローバリズムが、この巨大な東大寺で最もよく感じられるのが、この三尊像だろう。逆に言えば、その他はほとんどが幾度の戦火で燃やされてしまい、今あるのは「チーム・ラボ」のようなバーチャルな大宇宙なのだ。

気づくと夕暮れになっていた。バーチャルな境内を出て、現実の21世紀の奈良市に戻っていった。(続)