佐賀に現れるヨーロッパと、東照宮×伏見稲荷×清水寺!? | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

ポーセリンパークは無理しすぎか?

有田の町から6キロほど車で行くと、山の中にヨーロッパの宮殿が現れた。そのミスマッチさはなんとも形容しがたい。ここがポーセリンパークである。ツヴィンガー宮殿というこの建物は、本来ドイツ・ドレスデンに18世紀初頭に建てられたもので、そこの王が東洋、特に有田焼を愛し、有田焼を模したマイセンの磁器を作らせたことにちなんで、なんと本物と同じサイズの宮殿を鉄筋コンクリートで作らせたという。そして外はおそらく日本国内最大のバロック庭園である。

年末の小雨が降る日だったこともあってか、見学者はほぼおらず、貸し切り状態だったこともあり、日本人観光客もいないので角度によってはヨーロッパそのものに見える。開園したのは1993年、つまりバブル崩壊直後であるが、逆算すればバブル真っただ中のころに設計・造園されたものであろう。とはいえバブルのあだ花と笑ってはいけない。ニセモノにしてはクオリティが高すぎるのだ。

しかしそれとは別に、正直この町にここまでのヨーロッパ的雰囲気は似つかわしくないのではと思った。有田は有田でいいのではないか、いや、有田は有田であるべきではないかと思うからだ。「荘子」はこう述べている。

且子獨不聞夫壽陵餘子之學行於邯鄲與。未得國能、又失其故行矣。直匍匐而歸耳。(ある田舎者が、みなビシッとカッコよく歩くことで有名なハンタンという都会に出て、都会人の歩き方をまねました。でも結局身につかず、さらにもともとどうやって歩いていたかも忘れ、匍匐前進で故郷に帰ったとさ。)

このツヴィンガー城とバロック庭園のような、中途半端とは到底呼べない完ぺきに近いヨーロッパを導入したまではいいのだが、完成後数十年経っているため、あちこち薄汚れやひびが目立ち始め、侘び寂び感が漂ってくる。西洋の宮殿の侘び寂び感というのもあわれを誘う美しさがあっていいのだが、一般的には廃墟あつかいだろう。

さらに、ここは地元の大手酒蔵が運営しているというが、観光客がこのまま減少し続ければ、果たしてこの後、どうなるのだろうか不安がよぎる。一つだけ言えるのは、ここは有田焼そのもののように町の人々の暮らしの隅々にまで浸透しているとはいいがたいということだ。人々の間に愛着のようなものが定着しなければ、ここもコンクリートの廃墟のかたまりにされる日も遠くないかもしれない。「老子」はこうも言っている。

企者不立、跨者不行。(つま先だけでピーンと立ち続けることなんて無理。大股でぴょんぴょん飛び続けることも無理。)

 この本格的欧州建築および庭園の運営は、地方の酒蔵が無理してつま先立ちしているように思える。ハンタンの人々の歩き方に憧れ、結局身につかず這って帰った男のように、この町がならないことを願いつつ、結局自動販売機の温かいお汁粉120円のみを消費して、小一時間ほどでポーセリンパークを去った。

キラキラてんこ盛りの祐徳稲荷神社

佐賀県で最も有名な神社といえば、祐徳稲荷神社だろう。17世紀に九州では名高いこの神社だが、全国的知名度はいまいちであろう。しかしタイでは日本を代表する神社の一つとして知られているという。それも佐賀県がタイの映画やトレンディドラマを何度も誘致したためだという。コロナ前は特にタイ人観光客が多かったというので、フィルムコミッションの成功例として知られている。

とはいえ、どんな神社でもよいのかというとそうではない。フィルムコミッションで大切なポイントの一つとして、写真映えすることが挙げられる。ここは実に写真映えする。写真に出てくる祐徳稲荷神社をひとことで言うと「佐賀の地に高さ18mの清水の舞台を建て、その上下に日光東照宮を置き、間を伏見稲荷大社の千本鳥居でつないだ神社」である。佐賀県という訪日客の間で無名な地ではあっても、清水寺、東照宮、伏見稲荷大社というキラーコンテンツのハイブリッドをてんこ盛りにしたこの神社は、佐賀県における訪日客を独り占めしているといっても過言ではない。

それにしてもありがたいようなありがたくないような神社だ。出雲の古神道的な神社の在り方に慣れてきた私には、例えば近代国家神道的色彩の強い橿原神宮や近江神宮、宮崎神宮に対して多少「思想的抵抗」がないではない。それとは異なり、「鉄筋コンクリートに金銀朱青を塗りたくった、こてこてのてんこ盛りのド派手な神社」に対して、思想的な抵抗は皆無ではあっても、「俗な」感じが否めない。同じ九州でも日向高千穂の天岩戸神社のような荘厳さには心が強く反応するが、この神社には何の抵抗もない代わりに、心にじわじわとにじんでくるようなありがたみも感じなかった。

言い換えるならば、ここには「タオ」の存在を感じられなかったのだ。とはいえポーセリンパークのように無理している感はない。それなりに人々の崇拝を集めているのは感じられる。