「満韓ところどころ」を書いた漱石はヘイト主義者なのか? | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

「満洲」-差別と憧憬の狭間で

1903年に帰国した後は、東京帝大で英文学を教えた、奇しくも前任者はまたしても小泉八雲ことラフカディオ・ハーンだった。八雲の文学的な講義に比べ、漱石は分析的で、八雲ファンだった学生たちからはボイコットまで受けたという。東大教授をやりながら千駄木の家で執筆活動に励み、「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」を「ホトトギス」に発表し、「虞美人草」「夢十夜」「三四郎」等を朝日新聞に連載した。

そして1909年、旧友が南満州鉄道株式会社(満鉄)の総裁になっていた関係もあり、満洲及び韓国をまわり、その紀行文を「満韓ところどころ」として朝日新聞に掲載することとなった。これは漱石の「隠し子」的作品といっても過言ではない。なにせ「近代的自我」を追求し続けた国民作家による「ヘイトスピーチ」に取られても仕方ない表現がノンストップで続くのだ。以下、具体例を三つ挙げよう。

「河岸の上には人がたくさん並んでいる。けれどもその大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚ならしいが、二人寄るとなお見苦しい。こうたくさん塊るとさらに不体裁で…」

「その昔日露戦争の当時、 露助 が(中略)土の中に埋めて行ったのを、チャンが土の臭を嗅いで歩いて、とうとう嗅ぎあてて…」

「彼等は舌のない人間のように黙々として、朝から晩まで、この重い豆の袋を 担ぎ続けに担いで、三階へ上っては、また三階を下るのである。その沈黙とその規則ずくな運動と、その忍耐とその精力とはほとんど運命の影のごとくに見える。」

時代を反映して、現在使われない言葉もあるが、「クーリー(苦力)」とは中国人肉体労働者、「チャン」とは中国人に対する蔑称である。ちなみに三つめはクーリーに敬意を払っているように見えて、実際は「日本人ならやらないことをこいつらはやっている」という目で見ているに過ぎない。

より直接的な表現が、彼が哈爾濱(ハルピン)を訪れた一月後に哈爾濱駅で朝鮮統監伊藤博文が安重根に暗殺された事件に鑑み、満洲の日本語新聞に寄稿した「満韓所感」にもみえる。

内地に跼蹐(きょくせき)してゐる間は、日本人程憐れな国民は世界中にたんとあるまいといふ考に始終圧迫されてならなかつたが、満洲から朝鮮へ渡つて、わが同胞が文明事業の各方面に活躍して大いに優越者となつてゐる状態を目撃して、日本人も甚だ頼母しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた。

つまり、英国でアジア人としての劣等感にさいなまれ、ノイローゼにまでなり思い詰めていたのだが、日露戦争後の満洲や朝鮮では日本「優越者」となっているのを見て単純に誇らしく思っているようなのだ。そこに被支配者の抱いた憤りや屈辱、なぜ安重根が立ち上がらねばならなかったかなどについて思いをはせることはない。そして次のように締めくくる。

同時に、余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以て事に当るわが同胞は、真に運命の寵児と云はねばならぬ。」

ちなみにこの文章は2010年に「発掘」されると、まず右派が注目し、この部分だけ反中嫌韓の言説として切りぬかれ、「あの漱石先生も100年前からこう言っている」という「証言」とされている。漱石は果たしてそのような差別主義者だったのだろうか。

 

目の前の清国と脳内漢詩文の世界のはざまで

 これらだけを見て、日露戦争後に事実上日本の支配下に置かれた満洲(関東州)に対する彼のまなざしを批判するのは簡単である。しかし詳細に見ると、次のように伝統的な中国文化、大陸的な鷹揚さに対しては尊敬の念を素直に表している。

「主人は背の高い大きな男で、支那人らしく落ちつきはらって立っている。」

「いろいろ御世話になってありがたいから、御礼のため梨を三十銭ほど買って帰りたいと云うような事を話してくれと頼んでいる。それを(中略)支那語に訳していると、主人は中途で笑い出した。三十銭ぐらいなら上げるから持って御帰りなさいと云う…」

「後藤さんも満洲へ来ていただけに、字が旨くなったものだと感心したが、その実感心したのは、後藤さんの揮毫ではなくって、清国皇帝の御筆であった。」

 漱石は少年時代から漢文をよくし、漢詩を作るほどの能力までもっていた。しかしどうやら中国語会話を本格的に学んだという形跡はなさそうだ。満洲旅行中も通訳者の力を借りている。脳内の漢詩文の世界に対する憧れと、目の前の「汚く遅れた」世界のギャップにどう対処してよいか戸惑っているようなのだ。しかも現実の満洲はそれだけではなく、「内地(≒日本)」よりも進んでいるものも散見されることだ。例えば道路工事を見た時、

「内地のように石を敷かない計画らしい。 御影石が払底なのかいと質問して見たら、すぐ、冗談云っちゃいけないとやられてしまった。これが最新式の敷方なんで、(中略)内地から来たものはなるほど田舎もの取扱にされても仕方がない。」

「あれは何だいと車の上で聞くと、あれは電気公園と云って、内地にも無いものだ。 電気仕掛でいろいろな娯楽をやって、大連の人に保養をさせるために、会社で拵えてるんだと云う説明である。」

というくだりは考えさせられる。デジタル化に関しては中国のほうが日本より急速に変化する21世紀の日中関係とよく似ているが、当時の満洲の急速な発展は日本が占領し、現地でのしがらみをみな無視して計画を進めていったという背景があることを、漱石なら分かっていたはずだ。

伝統的な漢詩文の世界と現在の封建制および帝国主義にさいなまれる清国、そして日本よりも進んだ近未来社会が渾然一体となったのが当時の満洲だったように思える。

 

「猫」×「坊っちゃん」で満洲を歩く

私は特に漱石びいきではないが、この葬り去られたかのような紀行文に、「坊っちゃん」のなかではちきれそうな「弱気を助け強気をくじく」まっすぐな批判精神を、「吾輩は猫である」にあふれる諧謔という方法に置き換えて、大日本帝国の植民地統治を茶化しているように思えてくるのだ。例えばこの紀行文の冒頭の文は確信犯的な皮肉である。

「南満鉄道会っていったい何をするんだいと真面目に聞いたら、満鉄の総裁も少し呆あきれた顔をして、御前もよっぽど馬鹿だなあと云った。」

当時の国策会社であった満鉄を知らないというのは、令和の知識人が電通のトップに「電通ってなにする会社?」というようなもので、その背後にある政治性を知らないはずではない。ちなみに電通は満鉄のDNAを受け継いでいるということは、ここでは語るまい。

満鉄に招待された彼は、いわば「国賓待遇」で贅沢な大名旅行をさせてもらっている。この視察が単なる旧交を温めるためのものではなく、満鉄の満洲経営を肯定的に書いてほしいという意図が、この国民作家に期待されていたということは、漱石もわからなかったはずがない。

国民作家として名を成した彼が、だまされた振りをして植民地とやらに赴き、見聞きしたものを面白おかしく書いてやろう、というのが本当のところではなかろうか。そもそも「漱石」という名の由来は、「漱石枕流」という中国の故事に由来する。昔ある武将が、「漱流枕石(水の流れで口を漱ぎ、石を枕にして寝る)」というべきところを「漱石枕流」と言ってしまったが、いや、これで正しいのだ、と自分の非を認めなかったことから、負けず嫌いの頑固者のことを「漱石枕流」という。「坊っちゃん」そのものではないか。

著名人とはいえ権力とは無関係の漱石は、国家権力の恐ろしさを知っていた。ただし権力に正面からぶつからず、清国人を汚いと罵る振りをして、日本人の思い上がりを演じて見せたのではないか。そして彼らにも尊敬すべきところもあれば、日本以上に進んでいるところもあることを紹介したのがこの作品なのではないか。そう思うと冒頭に出てきた「汚い」云々のくだりも頭ごなしに否定できない。

時代は前後するが、渡満前のロンドン時代に周囲の日本人が清国人に間違えられて不愉快だと迷惑がっていた当時、漱石はこう述べている。

日本人を観て支那人といわれると厭がるは如何。支那人は日本人よりも遥かに名誉ある国民なり。ただ不幸にして目下不振の有様に沈淪せるなり。心ある人は日本人と呼ばるるよりも支那人といわるるを名誉とすべきなり。仮令(たとえ)然らざるにもせよ日本は今までどれほど支那の厄介になりしか。少しは考えて見るがよかろう。

彼は目の前の中国人のなかに、日本文化の源流を作り上げた「偉大なる支那文化」の片鱗を感じていたのだろう。それはたとえるなら昔世話になった先生が亡くなり、その息子が犯罪者になっていたとしても、息子を目の前にすると顔立ちなどに先生の影をみるようなものかもしれない。そして彼は続ける。

西洋人はややともすると御世辞に支那人は嫌だが日本人は好だという。これを聞き嬉しがるは世話になった隣の悪口を面白いと思って自分方が景気がよいという御世辞を有難がる軽薄な根性なり。」

本人がいないときにその人の悪口をいう人も言う人だが、それを聞いて喜ぶ人のレベルの低さを嘆くだけの「常識」は、彼も持ち合わせているのだ。

ちなみに「満韓ところどころ」とはいいながら、大韓帝国に関する記述はほぼない。というのも先述の通り哈爾濱で伊藤博文が安重根に殺害されたため、韓国周遊のネタは打ち切られたようだ。いずれにせよ、そのような政治的な制限をうけたぎりぎりのところで執筆したが、じきに忘れられた、しかし忘れてはならない小品である。

 

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