福澤諭吉 「学問のすゝめ」から「脱亜論」までをたどる旅① | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

豊後中津-城の破却を提言した諭吉

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」という、大人なら誰でも聞いたことのある名フレーズから始まる「学問のすゝめ」。明治時代に超ベストセラーになったこの本の著者は、おなじみ福澤諭吉である。同時代の他藩に比べても封建制の強い豊後中津藩で下級武士として生まれ育ったため、学問的な実力はあれどもなかなかそれを世のために生かすチャンスを与えられなかった彼は、後に「門閥は親の敵」とまで述べている。

ある年の年末に大分県をまわり、最後に中津を訪れたことがあった。中津川のデルタ地帯に発展したこの城下町の中心は、桃山時代に秀吉の軍師としてその名をはせた黒田官兵衛(如水)が築城した水城である。関ケ原の後、黒田家は福岡城に移転し、変遷を経た19世紀には奥平家が城主となっていた。現在見られる天守は1960年代に想像によって建てた模擬天守であり、諭吉の時代にはなかったものだ。中津城のホームページにはこうある。

中津城は、154年間に渡り奥平家の居城として城下町中津の繁栄を見守り続けたのです。廃藩置県の際には城内のほとんどの建造物が破却され、御殿だけが小倉県中津支庁舎として存続する事になりました。しかし、1877年(明治10年)の西南戦争の際、その御殿も焼失してしまったのです。

実は中津の繁栄を見守り続けた建造物を、まだ新しい御殿を残して破却するように提案したのは当時の日本一のオピニオンリーダーだった諭吉先生だったというが、「先生」がこの町のシンボル的存在の破却を提案したのでは都合が悪いからか、それについては記述されていない。彼にとってこの町は、出生地ではあっても「ふるさと」という郷愁を感じさせるものではなかったのかもしれない。そしてそれは言うまでもなく中津が理不尽なまでに封建制の強すぎる藩だったことによるものだろう。 

ご神体を投げ捨て、お札を踏む「科学的」悪童?

東に10分足らず歩き、その名も「福沢通り」を通り過ぎ、「福沢公園」の前に現れた藁ぶき屋根の家が福澤諭吉旧居である。実に風通しのよさそうな家屋である。大坂の中津藩屋敷で1835年に生まれた彼がこの家に「戻った」のは1歳の時。それから長崎に蘭学(砲術)を学びに行くまでの約20年間、鬱屈した青少年時代を過ごしたのがここである。

少年時代の彼は、学問好きではあったが、母親の影響もあってか宗教心は薄かったようだ。もっと言うならば非科学的なことは「迷信」と考え、一笑に付したようだ。例えば大人が一生懸命拝んでいた近所のお堂の戸を開けると、ご神体がただの石ころだったので、それを投げ捨てて代わりに路傍の石ころを入れておき、事情も知らずそれを拝む大人を嗤ったりとか、神社のお札を恐る恐る踏んでみたりしても罰が当たらなかったとか、当時の基準では神仏を恐れない「科学的」な悪童だったようだ。

そこで私はピンときた。彼の家系は浄土真宗ではなかったろうか、と。実は真宗ではお札やお守り、ご神体の存在などは認めない。唯一無二の阿弥陀如来に帰依することで、来世極楽浄土に往生することを願うのがその教えである。これは主に農民や商工業者、穢多・非人とされた被差別民など、非支配層の宗派であったが、下級とはいえ武士階級だった福沢家も浄土真宗本願寺派だった。

旧居からJR中津駅まで歩く途中に寺町を歩いたが、数多く建ち並ぶ寺院のうち、少なからぬ真宗寺院を見た。この地域はどうやら非常に真宗が盛んな地域のようだ。それならば神仏をも畏れぬような「罰当たり」な行いに走ったのも納得がいく。とはいえ、だからといって彼が極楽浄土の存在を信じていたかというと、少なくとも著書に浄土への憧れや悩みを書かなかったことからして、おそらく非常に希薄だったのではなかろうか。

とはいえ冒頭の名言「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」というのは一般的に米国独立宣言から来たものだというが、もしかしたら深層心理のなかで浄土真宗の説く「身分に関係なくどんな人でも阿弥陀如来は救ってくださる。」という思想からきていたものではと思えてくる。

 

諭吉の学問のルーツ

いずれにせよ、当時の武士の子たちはすべてそうだったろうが、彼もこの町で社会秩序を重んじる漢学を学んだ。しかし現行の封建制度には猛烈に反感を感じていた。とはいえ、庶民とは異なり死後の極楽浄土を夢見たわけでもなかった。彼は極めて現実的で、桎梏(しっこく)から自らを解放させるべく、ようやくつかんだ長崎留学のチャンスを無駄にしないよう、当地でも日に夜を継いで熱心に学んだ。ちなみに彼が長崎で当初下宿していたのも光永寺という真宗寺院で、境内に「福澤先生留学之址」という記念碑がたてられている。

そこで勉強には身が入らないが家老の息子というだけで派遣されてきた青年にあった。彼とは反りが合わなかったが、そのような学問上全く進歩のなさそうな人間関係は、彼が最も憎んだものだった。「合理主義」「実利主義」こそ彼の生涯を貫くモットーになっていったのだ。

そしてその家老の息子の策略で、中津の母が倒れたという偽の知らせを受けて一年ほどで帰郷せざるを得なくなったが、母親の無事を確認したらすぐに大坂に学問をしに向かうことにした。長崎で火がついた実学への火を、出身地とはいえ身分と人間関係がすべての中津に滞在することで消すわけには行かなかったのだろう。

それは年老いた母親を見捨てるということにつながりかねないと知っていながら、彼は新天地でもあり出生地でもある大坂での可能性に賭けることにしたのだ。

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