市ヶ谷という「能舞台」 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

激動の時代を生き抜いた市ヶ谷記念館

三島由紀夫の生涯をたどっているうち、二・二六事件に深入りしてしまった。旅の終わりは彼が1970年に自決をした市ヶ谷の防衛省としたい。

事前に見学予約の手続きを取って、旅友たちとともに防衛省に向かった。省内の自由見学はできないが、二時間ほどのツアーで現在「市ヶ谷記念館」となっている旧陸軍士官学校(陸士)本部の建物が見学できる。エレベータで丘の上にあがるが、昭和の頃はこの丘の上に例の陸士の本部があったという。

省内の庁舎を横切って5分ほど歩くと、お目当ての市ヶ谷記念館である。1937年、つまり二・二六事件の翌年完成し、戦時中は大本営がおかれ、戦後は極東国際軍事裁判(東京裁判)が開かれ、そして1970年11月25日には三島由紀夫がたてこもった後、割腹した建物である。わずか三十数年の激動の時代を生きぬいてきたが、老朽化によって取り壊されそうになったところを、平成になってから「保存を求める連絡協議会」が最高裁まで争って1998年に一部だけだが移築保存したのがここである。

「東京裁判」の現場

外観はなかなかモダンでさっぱりしており、軍人会館のような重々しさはない。この建物が完成して「主人」として入ってきた統制派は、同時期に起こった盧溝橋事件をきっかけとして中国に侵攻し始めた。それまで中国に対しては不拡大、英米とは協調を外交政策としていた皇道派なき後は本格的に軍国主義化したのだ。その結果中華民国は英米を味方につけ、「戦勝国」の末席に座って日本を裁く側となった。

中に入ると講堂があり、華やかなデザインが随所に散見される。正面に向かって左に連合国十数か国の国旗が立てかけられている。言うまでもなく東京裁判において日本を裁いた国々の旗である。その中に中華民国の青天白日旗を見た。一時は米英中ソで日本を分割する案もあったが、それに猛反対したのが日本軍により最大の被害を受けた中華民国だったことを思い出した。

そして右側に「被告」とされた人々が座らされていた。東条英機や大川周明、松井石根らもあのあたりに座っていたのかと想像する。

ステージは二段になっており、上段は終戦まで天皇の席であったが、東京裁判のときには通訳ブースがおかれていた。私もとりあえず語学屋の端くれである。日本と戦勝国の間に挟まれた通訳者に思いをはせずにはいられない。戦時中は日系人収容所に入れられるか沖縄戦などで命を奪われ、戦後はこの法廷で通訳をさせられていた日系米人の心の揺れを描く山崎豊子の「二つの祖国」を思い出した。軍人や政治家より私がこの建物で最も感情移入してしまうのは、日米二つの祖国にはさまれてもがき苦しんた彼らのことが頭に浮かぶからだろう。

 

「法に対する罪」

二階に上がると三島由紀夫らがたてこもった部屋である。この部屋を訪れる人の多くは三島のことを考えるだろう。案内人の方は三島がドアに残した三カ所の刀傷なども説明してくださったが、市ヶ谷記念館のパンフレットには三島の「ミ」の字もない。まるでそのようなことは起きていなかったかのようである。

三島がこの建物を死に場所として選んだのは、自衛隊員に決起を促すためというのももちろんあるだろうが、他にもいろいろなことが考えられる。裁判は事件の関係者が裁くことはできないが、東京裁判では連合国が敵国であった日本を裁いた。しかも「平和に対する罪」という「事後法」を作り上げて日本を裁いた。さらにいうなら国際法の専門家は先に靖國の遊就館前に記念碑のあったインドのパル博士しかいなかったのだが、彼以外の門外漢の裁判官による声が大きく、「日本無罪論」を説いたパル博士の声はかき消された。

連合国の日本に対する報復的措置であるのは明らかだが、それ以上に問題なのは「法」などは公正なものではないということを宣言したようなものであり、「勝てば官軍負ければ賊軍」を地でいくような「法廷まがい」は、二・二六事件を引き起こした皇道派を、敵対する統制派が裁いたあの軍法会議と何ら変わらないではないか。日本が「平和に対する罪」で裁かれたのなら、連合国は「法に対する罪」がありはしないか。

三島がこの場所を死に場所として選んだのも、皇道派の青年将校たちを裁判もどきの茶番で葬った陸軍統制派率いる日本が、同じく裁判もどきの茶番で葬られた場所であることに関係があるのではなかろうか。

 

バルコニーは能舞台?

三島たちがたてこもった部屋には縦長の窓が三つあり、ここからバルコニーが見える。そこに出て、下に自衛隊員を集めて最後の演説をしてこの部屋で腹を切ったのだ。バルコニーは目算で10メートル四方だろうか。ふとあるものに似ている、と気づき、下に降りて外に出た。もう一度外からバルコニーを見て確信をもった。これは能舞台そっくりではないか。

佐渡や靖國で見た野外の真四角な能楽堂をぐんと上にあげるとこんな感じではないか。能は「見立て」の芸能である。抽象的なものを具体的なものに見立てるくせがついている私にとって、下にイヌマキの木らしきものが二本植えられているのは、能楽堂の橋掛かりの前に植えられている三本松のようだ。すると正面のモダンな白亜の壁あたりに松の木の絵でも描かれているかのようにみえてきた。それならば私がさっきまでいた自決した部屋というのは本舞台と鏡の間(楽屋)をつなぐ橋掛かりではないか。そして舞台は生の世界、橋掛かりの向こうは死の世界であるというなら、そこで腹を切ったということは、やはりこのバルコニーを「少し大きめの能舞台」と見立てて最後の能を舞ったのではいだろうか。

役になりきるための「能面」

24歳の若さで発表した「仮面の告白」は自叙伝ということになっているが、あれも本当の自分をさらけ出しているわけではなかろう。異性が愛せなくて悩む主人公=三島の心理と行動を描いた虚実入り乱れるこのストーリーは世間を驚かせたが、それは単に同性愛というタブーを破ったからにとどまらない。私から見るとこれも自分を隠すための「仮面」というより、面をつけることで役柄と一体化し、役と自分の区別がつかない「能面の告白」のように思えてくる。男性が小面(こおもて)をつけて、若い女性としてふるまうとき、舞台上の能楽師は意識の上で男なのか、女なのか、興味深いところだ。

また彼は老いを醜いものとして忌み嫌い、永遠の若さを求めた結果、ボディビルディングで体と顔を作り上げたが、今思えばあれも「三島由紀夫」という人物になるための能面だったのかもしれない。

 

「三島由紀夫」という役を生涯かけて演じ切る

ちなみに彼の作品で何が好きかと聞かれることがときどきあるが、市ヶ谷に同行した旅友は、死ぬ前に脱稿した「豊饒の海」という潜在意識「阿頼耶識(アラヤしき)」や輪廻転生という仏教的内容をテーマとした作品を絶賛していた。一方で私は彼のほぼ唯一の明るい青春ストーリー「潮騒」が安心して読めて好きだ。

 しかしこと彼に関しては、一つ一つの作品の良しあしを語るのはナンセンスなのではないかと思えてきた。彼は文学者である前に、日本男児である前に、いや、人間である前にさえ「三島由紀夫」という存在を演じる能楽師だったのだと思うからだ。

見えない橋掛かりを歩くようにしてこの世界に誕生し、舞台上で同性愛に悩み、日本一を代表する作家となり、盾の会という民兵組織を作り、その制服を能衣装として舞い、最後に能の檜舞台に最もよく似ている市ヶ谷の防衛庁で見所(けんしょ=客席)の自衛隊員たちにアドリブで呼びかけ、そして見えない橋掛かりを戻って二・二六事件の将校さながら「天皇陛下万歳」を叫んで絶命した。

 

それぞれの作品は「劇中劇」

その間の「劇中劇」として「仮面の告白」(1949)でこれから始まる数十年の舞台が虚実入り乱れるものであることを示し、「潮騒」(1954)ではちきれるほど明るく健全な青春を、「金閣寺」(1956)では永遠の美しさを滅ぼすとともに命を絶とうとしてできないみじめな青春を、「憂國」(1961)では決起に誘われなかったが心中する夫婦を、そして「豊饒の海」(1965~)では輪廻を描いてこの市ヶ谷で切腹。その壮絶な死後に最終巻が出された。つまり世間の人々は数十年にわたる長い長い能を見させられ、「劇中劇」の一つ一つにまで心揺さぶられ、涙をながし、時には怒り憤っていたのだ。

しかもそれらの「劇中劇」は、それぞれが独立して楽しめるだけでなく、彼の人生を通して全てが最終場面の市ヶ谷に繋がっている。「潮騒」のはちきれるほどの純粋な若さを永遠な形にするかのように演説し、その直後に「金閣寺」の永遠の美を、万世一系の天皇になぞらえ、それに捧げる「憂國」を具現化したのが割腹だったのだ。そして彼の死はそれで終わるのではなく「豊饒の海」に輪廻転生し、夢幻能のようにいつでも戻ってくる。

彼がここで腹を切った11月25日は初ヒット作「仮面の告白」を起筆した日でもあるという。この日を選んで最期の檜舞台を踏んだというのも、昔の能は昼から夜まで一日がかりでやっていたことにちなむものなのかもしれない。そして最後に「天皇陛下万歳!」を絶唱したのは、能はそもそも神に捧げるものであったことから、「現人神」としての天皇に捧げた数十年の芸だったのだろう。

金閣寺の金=永遠の美と、能の「裏」を求めて佐渡にわたり、そこで北一輝に出会った。そして東京にもどると、北の思想に共鳴した二・二六事件の将校の激烈で儚い美を見たかと思うと、それは市ヶ谷で完結した。私の三島と金閣寺を巡る旅はここで終わりだが、彼自身の魂は輪廻転生し続け、「護國の鬼」となって日本全体を守り続けていくように思われる。そしてこれからはその激烈な能の余韻を楽しむことになりそうだ。(了)

 

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