古事記をあるくー国譲りと諏訪・出雲 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

國譲りと相撲

オオナムチ=大国主命の治める国は大いに栄えたようで、高天原からその様子を見ていた天照大神は出雲に遣いを再三にわたって送ったにもかかわらず、使いの神々がみな出雲側に丸め込まれ、定住してしまった。そこで「最終兵器」としてタケミカヅチら二柱の神々が送られた。「タケミカヅチ」とは「古事記」では「建御雷」、「日本書紀」では「武甕槌」と書かれるが、いずれにせよなにやら強そうな響きである。

出雲大社の西に日本海に面した稲佐の浜という海岸があるが、タケミカヅチはここに刀を突きたて、その上にあぐらをかき、国譲りをするかしないか大国主に返答を迫った。太平洋戦争時のシンガポールで山下奉文司令官が英国のパーシバルに「降伏するのか、イエスか、ノーか!?」と恫喝した時の模様に似ているかもしれない。

大国主命はそこで「息子が二人いるので、その意見も聞かないと。」と曖昧に濁した。するとタケミカヅチらは長男の事代主(コトシロヌシ)に聞くと、承諾して隠れてしまった。しかし次男の建御名方(タケミナカタ)は断固として譲らない。ある国が繁栄しているからといって、他国が国権を譲れというのは普通に考えると理不尽極まりないではないか。そこで稲佐の浜で相撲を取って勝敗を決することになった。国権をかけた取り組みがはじまったのだ

相撲とはいっても丸い土俵の中で、素手で取組み、倒れたり押し出されたりすれば負けるというような今のものとは異なる。タケミカヅチは建御名方に向かって腕を振り下ろすとその腕が剣になった。普通の相撲なら「禁じ手」だが、この戦いは行司さえいないデスマッチだったのだ。そこで建御名方は戦線離脱で東に逃げ、たどり着いた信州諏訪でついに白旗を挙げた。

 

諏訪―出雲族のコロニー

諏訪という地は実に不思議な土地である。まるで出雲のように、人々は神々と共生しているように見える。冬、諏訪湖に亀裂が入り、盛り上がると神々がやってきたと考えて「御神渡(おみわた)り」行事を行い、また六年に一度、命がけで柱を運び、四カ所ある諏訪大社にそれぞれ四本ずつたてる御柱祭など、出雲にもないようなプリミティブな祭りが存在するが、これも出雲から逃げのびてきた建御名方がタケミカヅチに対して恭順の意を示すためにこの地から動かない旨を誓ったからという。

ちなみに建御名方は地元では特に国譲りに敗れて仕方なく諏訪に来たのではなく、ひどい先住神を倒してくれたのだという。そして上諏訪温泉を見つけてくれたり、奥方は養蚕を伝えてくれたりしたらしい。ちなみに養蚕業は近代において富岡製糸場につぐほどの繁栄を見せたが、反面「あゝ野麦峠」の舞台となるなど、良くも悪くも日本の近代化を支えるようになった。

しかしいずれにせよこの地で建御名方は降参した。ということは、出雲王国は高天原にその国権を譲ったことになる。これによって朝廷ができるよりはるか前に栄えたであろう古代出雲はその名を消すこととなったのだ。

 

諏訪市博物館のパネルの熱いメッセージ

ところで諏訪市博物館の展示は切り口が実にユニークだ。展示品というよりも、展示パネルにこめられた思いに胸が張り裂けそうになる。例を挙げてみよう。

「開発が進み人の文化と自然との対立が深まる。自然との和解、祭りが必要になる。権力者は人々を代表して自然と交わり荒らぶる自然の力をおさめようとする。人と自然の秩序を統合する王者。自然ではなく権力者の 霊力への従属が始まる。」

「権力者の霊性への信仰は天皇制の成立によって頂点に達した。民衆のものだった祭りは権力に吸い上げられ神話に組みこまれていく。諏訪の湖をとりまく伝統的な信仰は “諏訪の神”として朝廷に登録された。」

これらからは、「中央集権国家」の名のもと諏訪にいた神々が朝廷のもとに組み込まれ、神々を祀る祭りも朝廷のもとに個性を塗りつぶされたことに対する怒りが感じられる。中央の検定に通った日本史教科書に対する不信感と、少なくとも諏訪の人々だけには中央にかき消された自分たちの歴史を知ってほしいという熱く哀しい思いが伝わってくるのだ。

 

出雲大社-国譲りの交渉の産物か

出雲の大国主命は改めてタケミカヅチらと交渉し、「この葦原中国(あしはらのなかつくに)は、命の随に既に献らむ。(私の治めてきたこの国は、天照大神に差し上げましょう。)」と国譲りを認めた。それと同時に、高天原の宮殿ほどの高層建築をつくるように条件を付けた。それが出雲大社本殿ということになっている。

しかしこの部分が「出雲國風土記」にはこうなっている。

江山来坐して詔りたまひしく、「我が造り坐して命く国は、皇御孫命平世知らせと依さし奉り、但、八雲立つ出雲国は、我が静まり坐さむ国と、青垣山廻らし賜ひて、玉と珍めで直し賜ひて、守りまさむ」と詔りたまひき。故、文理(もり)と云ふ

(大国主命は出雲の南東の境にある長江山に座っておっしゃった。「自分が国造りをしたところは皇室に献上いたしましょう。ただし八雲立つ出雲國は、私が静かに治める國として、青々とした山を巡らせて大切に守ります。」そこでこの地を文理(=母里もり)と呼ぶ。)

つまり、朝廷の編集した「古事記」では出雲を含むすべての土地が高天原=皇室に譲られたといっているのに対し、「出雲國風土記」では、「出雲を除くすべての土地を譲る」と言っているのだ。意図的ともとれる「ボタンの掛け違い」が見られる。

ちなみに「風土記」では大国主命が出雲の南東、つまり大和政権との国境にて「出雲は大国主のもの」と宣言するのに対し、「風土記」では出雲の北西で国譲りが行われている。

出雲大社の近くに島根県立古代出雲博物館がある。そこの目玉として1985年に発見された荒神谷遺跡の358本の銅剣と、1996年に発見された加茂岩倉遺跡の39個の銅鐸がある。「國譲り」をさせられてから、王権が栄光の時代のタイムカプセルのように埋めたのだろうか。また出雲大社境内から2000年に発掘された三本柱が一つにまとめられた宇豆柱(うづばしら)の存在は「古代出雲なんて眉唾物だ」と、いまいち自信のない20世紀末の出雲族の末裔たちに対して「お前たちは高天原の子孫が日本を作るはるかに前、この国を最初に造り上げたわしらの子孫ことを疑うな。」と、無言ながらも熱く語り掛けてくるようだ。

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