日本ラインとアルプスと日本日本ロマンチック街道② | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

日本アルプスと日本ラインと日本ロマンチック街道②

 「日本アルプス」と命名したのは、明治時代の英国人宣教師にして登山家でもあったウォルター・ウェストンであるが、それを喜んで広めたのは日本人たちであるのは言うまでもない。一体なぜ我々はこうまでして日本の風景を欧州として見たがるのか。

その原因の一つに、日本人独自の「見立て」という発想がある。つまり小石川後楽園や浜離宮、広島の縮景園などに杭州の蘇堤をイメージした石橋を架けることで、その空間を中国の一部とみなそうとすることは江戸時代に始まった。それ以前の、岩石を島や山に、白砂の砂紋を水流に見立てる竜安寺や大徳寺などの枯山水もそのまま「見立て」の庭である。日本の自然景観を欧州のそれに見立てるのはこうした文化的背景もあろう。

さらに欧米に追いつき追い越そうとした明治・大正の時代背景があると考える。特に明治時代は鹿鳴館で洋服を着た即席の「紳士淑女」が舞踏会を催し、欧米人に認められたいという思いが強い時代だった。日清戦争、日露戦争、韓国併合、第一次世界大戦を経た大正時代においても「大正デモクラシー」を謳いながらも民本主義(デモクラシー)は付け焼き刃にすぎなかった。そのようなときに英国人から「日本アルプス」と呼ばれ、「日本ライン」を船で下ることで、この国を欧州国家として自認したかったのだろう。

北上して新潟県上越地方の海が見えた。さらにそれを西に進むと糸魚川(いといがわ)のフォッサマグナを超えて富山県に入るころには残雪をいただいた初夏の立山連峰が屏風のように立ちはだかった。黒部川で高速道路を下り、川沿いに南下すること20分で宇奈月温泉についた。

そこでバスを降りてトロッコに乗った。新緑の中を通り抜けるこのトロッコは、1930年代にこの川の上流に位置する仙人谷に水力発電用のダムを造るための資材を運ぶべく敷設された。世界恐慌で経済が悪化すると同時に三陸沖地震や冷害によって東北地方が凶作に見舞われた当時、3倍から4倍もの賃金が出るというこの現場は多くの労働者を集めた。

しかし五・一五事件、満州事変、二・二六事件、盧溝橋事件など、軍事色が強まる国家総動員時代の当時、労働者たちの人権はほぼ顧みられることはなかった。トンネル内はなんと160°もの高熱であり、体温の4倍を超えるこの穴の中、ホースで体に水をかけつつ掘り進んだが、熱射病に倒れる労働者も後を絶たなかった。さらに法律上40℃以上の場所には持ち込めないダイナマイトを裸の状態でもって入ったため、自然発火して何人もの労働者が亡くなった。その他、日本海側の厳しい冬がもたらした雪崩のため、労働者の寮が谷底に落下し、結局完成を見るまでに171名もの命が失われたりもした。

乗っていたトロッコには台湾人を初めとする観光客も多く、中部山岳国立公園の代表的な景勝地でもある青めのう色の渓谷の流れや、そそり立つ岩肌などの見所を楽しんでいた。しかし我が身に覆い被さるように立ちはだかる大渓谷に身がすくむとともに、工事犠牲者のことが脳裏をよぎる。なにせ宇奈月温泉から終点の欅平まで約20kmで171名、すなわち120mに1名の割合で命が奪われたのだ。

日本アルプスをいただき、日本ラインを楽しむだけでは西洋社会のもたらした真に普遍的な「民主主義」という価値観は根付かなかったことはこの工事の実態が証明している。

トロッコで宇奈月温泉に戻ってから再びバスに乗り、その日の宿に向かった。

 

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