新大久保の「履歴書」ーヘルンさん時代から韓流・嫌韓まで | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

韓流の聖地、新大久保へ

入梅の雨の中、新大久保に向かった。この町はヘルンさんが亡くなるときまで住んでいたところだ。

新大久保というと、2000年代から「韓流」の聖地として韓国料理店や韓国食材の店、韓国のポップカルチャーの店などが軒を連ねることで知られている。私が初めてこの町の存在を知ったのは日韓共催ワールドカップを二年後にひかえた2000年ごろだった。

新大久保駅のホームと改札口をつなぐ階段の踊り場に、日本語とハングルの追悼プレートが埋め込まれているのが見える。「新大久保」という地名が全国区のものとして知られたのは、2001年1月26日に起こった新大久保駅乗客転落事故だ。酔っ払って駅のホームに落ちた人を救おうとして、居合わせた韓国人留学生李秀賢氏と日本人カメラマン関根史郎氏が酔客を助けた代わりに、命を失った。それはたちまち「悲しい美談」として全国に広がった。「日韓蜜月」の時代を象徴するような事件だった。

しかし韓国語を学んでいた私は、当時日本のメディアで盛んに取り上げられていた「日韓親善ムード」に対しておっかなびっくりだった。それは自信の学生時代の韓国語学習を取り巻いていた環境に起因する。

 

90年代の韓国語学習

それからさかのぼること約7年、私が韓国語を学び始めた1993年ごろは、「韓国語を学ぶ」という行為そのものが否定的に取られていた。また韓国にまつわるニュースでろくなものはなかった。私は三修社の「朝鮮語を学ぼう」という分厚い文法書の紙カバーを、タイトルが見えないように内側の白い部分を表にしてテープで本体とくっつけて、こそこそと学んだ。ウォークマンで韓国語の教材のテープを聞いているとき、同級生に「自分、何きいとんねん?」と問われた時にはあせって「中国語のテープ」と答えたこともあった。1993年当時の大阪では、韓国語学習に対する偏見が確かに強かったようだ。

「自分、朝鮮人やろ?隠さんくても堂々勉強すればええやん?」と「善意(?)」で言われたこともある。「高田朝鮮人説」はどうやらあちこちでささやかれていたようだ。

 

新大久保とコリアンの戦後史

新大久保にコリアンが定住しだしたのは戦後の廃墟から立ち上がった時代だ。そのこともあり、在日コリアン系企業で最大のロッテがこの町にチューインガムの工場を設立し、コリアン系の住民も多く雇われた。

その後、1965年の日韓国交正常化以来、韓国は植民地時代の賠償金代わりに、日本に国内の各種インフラを整備させたこともあり、その後は急速に「漢江(ハンガン)の奇跡」という超高度経済成長を遂げ、88年にはアジア二度目の夏季五輪を行い、93年には大田(テジョン)で万博を行うまでになったが、日本で韓国を好意的に見ていたのは左派の一部にすぎなかったかもしれない。

そしてソウル五輪後、この町に本国からの韓国人が増加した。つまり平成、特に90年代後半の入管法緩和からである。とはいえ、コリアンだけの町かというとそうではなく、実態は中国系、東南アジア系、南米系など世界中から人々が集まる「マルチ・エスニックタウン」というのにより近かったようだ。

アジア通貨基金と韓流

そして1997年から翌年にかけてのアジア通貨危機でタイ、マレーシア、インドネシアと並んで国家財政が破綻し、IMFの管理下に移った韓国の人々のうち、国に帰っても混乱状態にあるので、この町に残る道を選択した人々も少なくなかった。

「雨降って地固まる」というが、中小企業の大胆な斬り捨てと、グローバル企業化した財閥の支援という、IMFの徹底したテコ入れによって、そして軋轢はあったが国民の表面手kな順応によって、韓国経済はわずか数年で少なくとも表面上は復活し、グローバル化に乗った韓国の若者たちは英語や中国語、日本語等を学んで世界を闊歩するようになった。そして韓国映画および韓流ドラマの世界普及を国策とした政府は、作品内で出てくる衣食住他の韓国文化をも輸出した。

この町がいわゆる「第一次韓国ブーム」の聖地となり、韓国の若者が本格的に闊歩しはじめたのはそのころからだ。

私が2000年前後のこのムーブメントに懐疑的だったのは、つい7年前の韓国語学習入門時にこっそり隠れて学ばなければならなかった周囲の空気を覚えていたからだ。つまり、これが一過性のものかどうか、判断がつかなかったためだ。

当初は中高年女性のノスタルジーも相まって日本中を席巻した韓流、特にドラマや映画だったが、その後はK-POPSが大流行し、韓流ファンの年齢層がぐんと下がると同時に、確実に日本社会に根付いていった。それまで外国のポップスといえば欧米のみだったのが、韓国、すなわち隣国のポップカルチャーが若者の憧れと熱狂の対象となったのはおそらく江戸時代の朝鮮通信使が最後に日本を横断した1764年以来、約240年ぶりではなかったろうか。日本人の心を数百年ぶりに朝鮮半島に開かせた韓流の意義は歴史上きわめて大きい。

 

韓流とセットで現れた「嫌韓」

一方、それと同時に起こったのが「嫌韓」感情である。日韓の間には歴史認識問題や領土問題、民族問題などの各種不安定要素がある。さらに明治、大正、昭和にかけて「アジア唯一の先進国」日本が「頑迷固陋な」朝鮮半島の上に来ることで固定化されてきた両国関係が解消されたことも挙げられよう。

ちなみにヘルンさんが大久保の屋敷で亡くなった1904年に朝鮮・満洲での権益をかけて行われた日露戦争が始まり、米国が仲裁に入ったポーツマス条約の結果、ロシアは敗北し、同時に朝鮮半島は第二次日韓協約によって軍事面や外交面において日本の管理下に置かれた。朝鮮劣位の日韓関係はヘルンさんの死去と時を同じくして始まったといえる。

その関係が21世紀を迎えてから相対的に日本の立場が低下することによって急激に変化した。その不安感といらだち、さらにインターネットの普及による日韓関係に関する情報へのアクセスのしやすさなどから、否定的な意味で韓国に「関心」を持つ層(特に中高年男性)が増えてきたのだ。それは「嫌韓」だけでなく「悪韓」ひいては「呆韓」などという造語が次々とできるほど「隆盛を極めた(?)」が、日本が「絶対安全圏」にあぐらをかいていた20世紀の在日朝鮮人差別とは異なり、21世紀にはその立場が危ぶまれることもあり、危機感が切実だった。

2011年の東日本大震災では一時的に滞在者の帰国ラッシュは続いたが、その年のうちに回復した。しかしそれが一段落したかに見えた2012年以降、各地でプラカードに朝鮮民族や中国人等を排斥する文言をかき、差別意識を隠さず通行人にまで罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかけるデモが頻発した。新大久保の町もこのようなデモや、逆に彼らに反対するグループの怒声がさらに飛び交った。日韓のみならず東南アジア、中国、ムスリムなど、民族や宗教などを問わず栄える新大久保の町が民族対立の町と変わってしまったのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

PRその1 この紀行文の訳しにくい個所を集めて英語、中国語、韓国語に訳していく「日本のこころを訳し語る講座」を、以下の日時に開催いたします。

英語 6月7日19時半から21時半

中国語 6月14日19時半から21時半

韓国語 6月21日19時半から21時半

初回は無料ですので、ご関心のある方はぜひともご連絡くださいませ。

二次面接対策だけではなく、日本文化を翻訳するには最適の講座ですので、皆様のご参加をお待ちしております。

 

PRその2 

通訳案内士試験道場では、6月から3学期の授業が始まります。それに先立ちまして以下の時間帯、2021年度の地理、歴史、一般常識講座の体験受講を開講いたします。(各二時間、zoomのみ)

 地理 水19時半 土10時 

 歴史 木19時半 土13時 

 一般常識 金19時半 土15時10分

 実務 日19時半

  暗記中心の単なる受験知識の獲得ではなく、日本で唯一、発表中心のゼミ形式でよく考え、深く幅広い分野が身に着く刺激的な授業を、ぜひともご体験ください。

http://guideshiken.info/?page_id=230

事前に課題がございますので、本年度の合格を目指す方は、お早めに以下までご連絡くださいませ。

https://secure02.red.shared-server.net/www.guideshiken.info/?page_id=109