床の間の書と花
その日は正面の床の間に「閑坐聴松風」と、草書で書かれた掛け軸とその季節の茶花が活けられており、拝見してから着座する。茶室の花に現代アートのような派手なものはない。自分が脇役であることを分かっているのか、自己主張しないながらも、きちんと季節感を演出しているのがほほえましい。
天心曰く「茶は姿を変えた老荘」。「無為自然」を重んじるタオイズムを部屋として具現化したら、このようになるのかもしれない。何度稽古に来ても作法が身につかない私が、それでもここに来させてもらうのは、高校時代から身に染み付いたタオイズムへの憧れと居心地の良さからなのかもしれない。
十一月の炉開きや一月の初釜には濃茶を回し飲みしたりもするが、普段の稽古はもっぱら薄茶である。とはいえ、2020年の初釜はコロナの「第三波」迫る「非常事態」にもかかわらず、十名の先輩方とともに炉開きに参加させていただいた。とはいえみなマスクをし、濃茶もできなかった。コロナ禍での茶道のありかたを暗中模索しているかのようだ。
お点前
最後に来たのに場所の都合上、上座に座ることになったが、じきにマツタケの形をした乾菓子を出され、懐紙に置いた。じきに前の方がお茶をたててくださったので取りに行き、「お点前頂戴いたします。」のあいさつで紅葉の柄の着いた茶碗の表を相手に向けるように数回回し、三口半ほどでいただいた。先ほどの乾菓子の甘さと薄茶の苦さが口の中で融けあう。茶碗を拝見し、「結構なお味でした。」と言って茶碗を返す。ちなみに非常事態だけあって、自分が使用した茶碗はそのつど水屋にもっていって洗う。
次は私のお点前の番だ。足がしびれるが、立ち上がり、釜の横に座る。緊張が走る。コロナのために色々と略式になっていることもあり、勝手がよく分からない。結局先生に言われるままに茶巾で茶碗をふき、袱紗(ふくさ)で茶杓を清めると、なつめの茶をすくって茶碗に入れる。釜の湯がぐらぐらと沸く音が聞こえる。その湯を柄杓ですくって茶碗に入れる。茶筅で点てるが、湯と薄茶のバランスがうまくいかなかったからか、または体に力が入りすぎていたからか、ふっくり泡立たない。これ以上やってもうまくいかないだろうと観念して、残念な思いで茶碗を畳のへりに置く。
茶道では流派を問わず「一期一会」、つまり茶を点てて出すこの今の瞬間が、目の前のお客とは最後の機会だと思って接するようにとはいうが、私の文字通り「粗茶」を飲んでくださる「犠牲者?」の方に、万一今後会うことができなかったとしたら、最後に点てた茶がこのようなものだったと思うと後悔の気持ちでいっぱいだ。
「喫茶去(きっさこ)」
なぜか禅の公案を思い出した。唐の趙州禅師は雲水に「ここに来たことがあるか?」と聞いて、ある雲水が「初めてです」と答えると、「まあ、お茶でも(喫茶去)」と言って茶を出した。別の雲水にも尋ねたところ、「はい」と答えた。禅師は同じく「まあ、お茶でも」と答えた。それを聞いた人が「なんで初めて来た人にも、来たことがある人にも同じようにお茶を勧めるのですか?」と問うと、「まあ、あんたもお茶でも。」と答えた。
趙州禅師は、だれに何と言われようとマイペースで茶を出す。私は誰が相手でもぎこちなく下手な茶しかだせない。しかしお茶のもつ禅的な一面には、厳しさの中に得も言われぬ居心地の良さを感じられるので不思議だ。
天心は「茶の本」のなかで、“beautiful foolish of things”という言葉を使っている。これは「大愚」を大切にする禅から来たものであろう。茶の湯というのはただの美しさではなく「愚かしい美しさ」なのだと実感した。たかが茶ではないか。こんなに畏まってびくびくしながら点てなくても、さっさと点ててだせばいいのだ。そんなことは百も承知だが、茶は天心が“teaism”と名付けた通りの「道」、でなければ生き方の指針と考えられてきたため、固く考えてしまうようだ。
茶室はインスタレーション・アートか?「道」か?
天心はどうやら茶道をインスタレーションのような空間芸術か、あるいは主客によって成り立つ参加型アートとみている節がある。そして私も書画や建築、陶磁器や着物などの工芸品、そして庭園などを効果的に配した総合芸術だと思わないでもない。しかし何か違う。茶を点てる人は、自らをアーティストだと思っているとしたら、軽いような気がする。「道」というものを歩いている人なのだ。
書を「書法」とよぶ中国人は、テクニック第一なのだろうか。また「書芸」とよぶ韓国人は書をアートとしてカテゴライズしているのだろうか。それらに比べると日本では「書道」すなわち書の道を歩くという哲学なのだ。
私のお茶を飲んでくださった方が、最後に点てると、別の方が茶杓となつめの拝見を所望した。道具の拝見には、それぞれの様式を紹介するだけでなく、茶杓に対して「御銘は?」と問うことになっている。いわば茶杓にその時節にあうニックネームをつけるのだが、その時は旧暦九月末だったが暖かかったので「小春日和です」と答えられた。掛け軸、季節の花から始まって、茶碗や着物の柄、さらには茶杓のニックネームまで、季節感が一貫している。
すきや―タオイズムの空間
稽古を兼ねた炉開きは終わった。みなで掃き掃除をし、釜も掛け軸もお花も掃除をすると茶室はなにもなくなった。そういえば天心は「すきや」と呼ばれる茶室に「数寄屋(非対称の部屋)」、「好き家(趣味の部屋)」「空き家(空っぽの部屋)」の三種類の表記があるとするが、この部屋も使用後は全くの「空き家」になる。なんとなればここで食事をすることも、寝ることも、仕事をすることもできる。部屋の用途が固定されていないので、融通無碍なところがタオイズム的に思える。
先生にお辞儀をし、ふたたび露地を通って外に出る。石段をあがるとそこは再び「外界」の東京である。洋館の坂を下ってから、かなり長い間、桃源郷をさまよってきたかのような思いである。
「茶の本」の旅のはじめとしてお茶をいただき、点てると、最寄りの上中里駅から常磐線に戻り、改めて五浦を目指した。
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