④「信」ー「ソンビ」安重根と「サムライ」千葉十七
栗駒山ふもとの宮城県大林寺へ
宮城県、秋田県、岩手県にまたがる栗駒山。東日本大震災の半年後、この山のふもとの栗原市大林寺を訪れた。そこには「為國献身軍人本分」としっかりした筆遣いで刻んだ石碑がたてられている。朝鮮人、安重根の絶筆である。その半年前には最大級の激震が走ったこの地区ではあるが、この幸いにして石碑は倒れていなかった。
新渡戸が「武士道」を英文で上梓した1900年、朝鮮半島は「大韓帝国」という仰々しい国号はあれども日露両国に挟まれ、次第に国力を失っていった。その後1904年に日露戦争が始まると、翌1905年第二次日韓協約によって韓国は外交権を日本に奪われ、大韓帝国皇帝の下で国政を統括する「統監府」が置かれたが、その統監が伊藤博文だった。
1908年に「武士道」の日本語版が出版され、国内では尚武の精神がもてはやされたその翌1909年、韓国の独立を願う安重根は伊藤博文をハルピン駅で射殺した。その後遼東半島の先端にある日本側の基地、旅順にて尋問を受けたが、その時の看守だった千葉十七のふるさとがこの町である。
千葉十七と安重根
千葉は旅順の檻の外から、伊藤博文を射殺したこの「テロリスト」の世話をしているうちに、安の信念である東洋平和に対して共感を持つようになった。そして処刑される直前に安が千葉に送った絶筆こそ、「為國献身軍人本分」だった。この力強い書を見たときに、脳内で「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」と、とっさに訳出した。
国権を失いつつある祖国のために敵の大将を倒す。これは武士道でいうなら最大の「忠義」でなくてなんであろうか。新渡戸も言うように、日本で「義士」というと「赤穂義士」すなわち忠臣蔵の四十七士だが、韓国で「義士」といえば安重根を指す。この「魂の純粋さ」に武士道を見て、安重根に同情を寄せた明治人も少なくなかったというが、中でも若き千葉は安重根から毎日じかに薫陶を受ける機会のあったほぼ唯一の日本人だった。
ふるさとの宮城県も、千葉が生まれる前に戊辰戦争の敗北によって「国」を奪われた。とはいえ当初は「日本人」として元総理大臣を撃たれたこともあり、安重根を憎んでいたようだが、時がたつにつれ安重根の置かれた状況は他人ごとではなくなったのだろう。あるいは檻の向こうの「賊」の姿に、彼は「賊軍」の汚名を着せられたふるさとの人々を見たのかもしれない。
そして何よりも、新渡戸の「武士道」が世に広まるにつれ、軽佻浮薄にさえ思える欧化主義の行き過ぎを反省し、この前時代的とはいえ先祖の残した「道」を再発見したという空気の変化も挙げられよう。そうなると欧米列強にならってアジアの「弱小国家」を支配しようとする自国に対する失望と、時流には乗らず不器用なまでに朝鮮流の「武士道」に殉じようとする安重根に対する畏敬の念が生じても不思議ではない。
「ソンビ」―朝鮮流サムライ
「筆は剣より強い」ことを前提とする朝鮮半島には「武士道」という言葉はない。しかし学問をやる人間は自分の主義主張により、徹底的に相手を攻撃するという伝統がある。日本人のように「言わなくてもわかる」「言いたいことをそのままいうのははしたない」などという考えはそこにはない。むしろ「筆が剣」なのであり、自分の主義主張が受け入れられなければ一族が路頭に迷うという真剣勝負にあるのが朝鮮半島だったのだ。
しかし一方で「一族を食わせていくための主義主張」ではなく、「自分が信じる正義に殉ずる」までの不器用な「サムライ」は朝鮮半島にもいた。それを固有語で「ソンビ(선비)」という。彼らは儒学を修める学者であるとともに、国家に一大事があったときにはどんなに貧しくとも立ち上がる。安重根がその意味ではソンビであった。それゆえ「長いものには巻かれろ」という現実主義者からは風車に立ち向かうドン・キホーテ的存在として揶揄されがちだが、彼らの生きざまこそ日本の武士道に近いものがあるようだ。
新渡戸は武士道の特徴として「名誉を重んじること」を挙げているが、東北の田舎の農民の千葉にとって「木っ端役人」とはいえ憲兵という権力の座にあることは名誉なことに違いなかったろう。しかし千葉はその後、旅順での憲兵としての勤務をやめ、故郷で安重根を供養しつつ一庶民として無名のまま生涯を送った。
「名誉」という世間の目を自分の価値基準とするのではなく、朝鮮人蔑視が横行したあの時代に、まわりに何と言われようとも愚直なまでに隣国の「サムライ」を弔うという一生を選び貫く、その不器用な信念こそ千葉なりの意地であり、武士道だったのかもしれない。お寺の本堂に置かれた安と千葉の位牌は、余震に備えてかあらかじめ横に寝かせられていたが、その仲良く横になったソンビとサムライに合掌礼拝し、寺を去った。
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