福島原発とフランス現代思想 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

福島原発と現代フランス思想

双葉町の観光案内所で、原発が最もよく見られるところを訪ねると、「テレビではよく浪江町請戸漁港からの風景がでますね。」とのこと。工事用のダンプがひっきりなしに往来するロッコク(国道六号線)を北上し、帰還困難区域をようやく抜けて東に進路をとる。カーナビは最新のものではないため、復興したはずの漁港がない。仕方なく勘で進むと、一面の荒野だ。数百メートル向こうに鉄筋コンクリート造の廃屋が見える。この広大な荒野が、かつては集落で、住民たちはあの日、ここで津波に呑み込まれたのだ。住む家を、家族を失った人々には絶望の淵に立たされる人も少なくなかったろう。

突然カミュとカフカとサルトルとともに旅につき合わされたかのような不条理を感じた。それからは見るものすべてが「フランス現代思想モード」になってしまった。

ようやくお目当ての請戸漁港の展望台を探し当てた。展望台とは言っても10mほどの防波堤の上に、物見台が置かれているだけだ。「浪江町の復興は請戸漁港から」という横断幕が掲げられている。「ペスト」の一節に「絶望に慣れることは、絶望そのものより悪いのだ。」というのがある。横断幕のスローガンはむなしく響くが、「旗印」は洋の東西を問わずあきらめそうな人々を奮い立たせるに違いない。

 その展望台に上ると、7、8㎞南に「テレビでよく見る」四本の排気筒が遠くに見えた。立春の暖かい潮風に吹かれながら、私はその四本を見ていた。あれが爆発したとき、私は東京にいたが、まるでカミュとサルトルがテレビ局を支配したかのような不条理さを感じていた。画面ではだれが見ても爆発している。しかし枝野官房長官は「3号機から煙が出ているという可能性があって、爆発の起こった、あるいは爆発の恐れがあるのではないかと…」と歯切れ悪く言葉を濁した。カミュの「ペスト」でも、有識者が「我々はこの病気がペストであるかのように振る舞う責任を負わなければならないわけだ。」と述べ、これが「ペスト」であると断言せず、あくまで「仮定」の話としていた。そして東電も政府も、あの爆発がメルトダウンであるかのように「振る舞い」だした。

 津波で海岸部はすべてが失われたこの地にいた人に追い打ちをかけるように、避難命令が出された。行き先が決まらぬままバスで十数時間もたらいまわしにされ、避難所に送られた人も少なくなかった。カフカ流にいうなら、「ある朝、起きてみたら原発の被災者になっていた。」とでもいおうか。不条理すぎる。そして「変身」の毒虫が、当初は家族から驚かれつつも大事にされていたが、そのうち疫病神扱いされるようになったのと同様、当初は同情されていた原発被災者に対する一般被災者の付き合い方も変わり、一般国民の関心も薄れていった。

 なすべきこともなくなり立ち尽くす排気筒を遠くに見ながら、ふとサルトルならこうつぶやくだろうかと思ったりした。「核エネルギーが何のためにあるかというのはあらかじめ決まっているのではない。ただ、現にこの世にあるものなので、それが何のためなのかという意味は自分たちで生み出さないと。これがexistentialismだ。」「人間は自由だ。逃げるのも自由だが、あえて自分の身体を縛るもの(engagement)の中に身を置くことで、自分を生かすことができるのではないか。復興のために働くのも自由であるが、いずれにせよ我が身を投げ出すことが自分を生かす道だ。これをprojectという。」

 あの排気筒の下では、今の今も数多くの人々が放射能の下で、それこそ我が身を投げ出して働いているはずだ。カミュ曰く「ペストと戦う唯一の方法は誠実さです。…私の場合は自分の仕事を果たすことだと思っています。」仕事を通した社会貢献。あの塔の下で生命のリスクを冒しつつそれをやっている名もなき人々が今あそこに確かにいるのだ。

そのうち間もなく解体される100m以上の排気筒が、墓標のように見えてきた。あれが起動したのは、私の生まれた1971年、いわば私と同級生だ。その後40年、だらだらと安眠をむさぼって好きなことしかしなかった私に比べると、「奴」は各家庭の家電を省エネモードで動かした石油危機の後も、お立ち台を照らすライトきらめくバブル経済のころも、COP3京都議定書によるCO2排出の際も、働きづめだった。しかし40歳になると誰も助けてくれないまま爆発するや、世界中から忌み嫌われるアイコンとなってしまった。

 古神道では人々に恵みを与えてくれる太陽や雨など自然現象を「和魂(にぎみたま)」、災いをもたらす日照りや洪水などを「荒魂(あらみたま)」のなす業と考えた。原発は瞬時にして和魂から荒魂ぶりを発揮したのか。しかし荒ぶる神は人々から供養され、鎮魂の対象となるが、「奴」は人々の怨嗟(えんさ)の的となったまま葬られつつあった。誰からも「針供養」をされないままに。

学生時代にフランス現代思想をファッション的に読んだだけの私には、彼らの思想もシールでペタッと貼りつけたような付け焼刃に過ぎない。ただ、なにかと理論武装しようとするとこの借り物の思想に頼ってしまう。そのうち物心ついてからというもの私の心の中にしみこんでいる、モノに魂を見出す古神道的な気持ちが沸きあがってきたようだ。

展望台から下りて、荒野を走った。途中で十数本の木々が、海とは反対のほうに傾いて地面にへばりついていた。あの大海嘯にもへこたれず抗う木々の姿に「ペスト」のクライマックスの名言、「われ思う、ゆえに我ら反抗す」を思い起こした。不条理をそんなものだと受入れ、慣れっこになり、みなが抵抗しなければ、本当に不条理な世の中が定着してしまう。横断幕の言葉よりも、木々の(あらが)いのほうに勇気づけられた。

近くの浪江町立大平台霊園に寄った。津波の後に造成されたこの霊園は、津波で亡くなった人も少なくないが、墓がみな海を向いている。墓石に「海」と一文字だけほる人さえいる。津波という「荒魂」を恐れつつも、やはり恵みをもたらす「和魂」の海を愛しているのだ。偶然「髙田家之墓」を見つけたので、知己でなくとも手を合わせた。墓石の亡くなった日を見ると、60代の男女と、90代の女性が2011年3月11日に亡くなっており、さらにその2年後、90代の男性が亡くなっている。つまり、おじいさんが、老妻と息子、そして嫁を90代で亡くし、老体に鞭打って避難し、2年後に亡くなったということだろう。私はその2年間のおじいさんの心中を察しつつ、ひたすら念仏を唱え、車に乗った。

もし、フランス現代思想に関心のある人に、お勧めの場所を聞かれたら、私は躊躇せずに浪江町を勧めることだろう。それとともに、海を畏れ、海を思う古神道的な人々の想いも伝えたいものだ。

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