江差と八戸―北国資本主義と北国ユートピア
函館から車で江差に向かった。18世紀半ばからニシン漁で栄え、その繁栄ぶりは「江差の五月は江戸にもない」というほどであったという。街並みは近江商人たちの質実剛健さを感じさせる邸宅が建ち並び、彼らとともにやってきた本州各地の民謡が江差追分として歌い継がれた。これを歌う少なからぬ人がアイヌの上着「アットゥシ」を着用して舞台に立つのも民族間の交流が垣間見られて興味深い。また、その年のニシン漁が終わったことを神に感謝する八月の姥神大神宮の祭りでは豪華な十三台の山車が町を練り歩く。匠の技を結集させた山車は江差山車会館で常設されており、豊漁に沸いた町の豊かさを物語っている。
戊辰戦争の折には旧幕府軍の榎本武揚や土方歳三らが経済的、軍事的要所のこの地をおさえるために「開陽丸」でこの町にやってきた。しかし沖合で暴風雨に遭い座礁。幕府がオランダで造らせた当時最先端の帆船も日本海の藻屑と消えた。現在は町とかもめ島をつなぐ地に復元されているが、いずれにせよ、この地が戦略上重要であったことを物語っている。
函館に戻ってフェリーで下北半島にわたり、南部(青森県東部)の中核都市、八戸に向かった。中世から南部氏が支配してきたこの町の中心となった根城では、珍しく中世城郭が復元されている。その主殿は桃山時代を想定して復元されたにもかかわらず質実剛健そのもので、華やかさは一切ない。畳も常時敷かれているのではなく、必要なときに置き畳として持ってくるだけである。
江差がニシン漁で繁栄の極みにあったちょうどそのころ、八戸藩は生き地獄の様相を呈していた。発端は糧食生産から商品作物中心に八戸藩が舵を切ったことにある。当時、現千葉県野田あたりでは醤油生産が急成長し、原料の大豆が大量に必要とされた。東廻り航路を利用して大豆生産に着手し、大きな利益を得たのが八戸藩だった。最盛期には農業生産の四分の一が大豆生産に頼るようになったが、そのころ「猪飢渇」と呼ばれる大飢饉が起こった。焼き畑農業で大豆生産をする際、数年使用した後に放置した大豆畑に生えた植物の根をイノシシが掘り起こして餌にしただけでなく、大量発生したイノシシが実った作物を襲いだした結果、1749年の天明の飢饉だけでも三千人を超える領民が餓死した。
それを目の当たりにした地元の医師、安藤昌益だった。江戸時代も後半に差し掛かると、各地で町人や医師出身の知識人が出てくるが、彼もその一人である。特に彼がユニークなのは、封建的社会において士農工商の身分、男女の別を否定し、徹底した人間の平等を謳っている点と、全ての人による「直耕」、すなわち自給自足を主張し、「不耕貪食」、すなわち他人の労働を搾取して自給しないことを否定したことだ。八戸市内の造り酒屋「八戸酒造」の敷地にある安藤昌益記念館は彼を「世界最初のエコロジスト」として顕彰しているが、どうやら彼はマルクスに先立つこと100年の、世界最初の共産主義者ともいえそうだ。ちなみに江差の繁栄もニシンの乱獲のためか、20世紀にはさっぱり取れなくなった。
盛岡に向かって「わんこそば」百杯に挑戦しながら思った。出雲割子そばや信州戸隠そばと比べると大味だが、飢餓と隣り合わせの時代の夢は、救荒作物のソバを思う存分食べることだった。わんこそばはそれを追体験し、食べ物の有難みを確認する遊戯なのかもしれない。
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