上毛かるたと上野三碑-古代人からのメッセージ① | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

上毛かるたと上野三碑-古代人からのメッセージ①

 「上野」と書いて「こうづけ」と読むのは、かつて栃木県や群馬県を中心とした地域を「毛野(けの/けぬ)」と読んだことに由来する。諸説あるが、大和の都人たちから見て、草深い東国の民は毛深い野蛮人とみたからこのような呼称を付けたのかもしれない。奈良時代になると国名には良い意味の漢字二文字を当てるように定められ、またこの地域の勢力を分割するためか、都に近い群馬県を「上野(かみつけ)」、都から遠い渡良瀬川以東の現栃木県を「下野(しもつけ)」と名付けた。

ちなみに群馬県では地方紙「上毛新聞」、ローカル線「上毛電気鉄道」、榛名山、赤城山、妙義山の「上毛三山」、そして草津、伊香保、四万(しま)の「上毛三名湯」というように「上毛」という呼称もよく使う。そして群馬県の老若男女すべてに共有されている郷土に関する知識は、「上毛かるた」に集約されている。これは県内の名物や偉人、自然、事象などを47枚のカルタにしたもので、幼稚園から高齢者まで皆に親しまれている。以下、そのカルタの文句を織り交ぜながら前橋・高崎に訪問した日のことを綴る。

 春を待ってから久しぶりに桜が満開のころ「つる舞う形の」群馬県を訪れた。まずは「県都前橋生糸の市」と謳われた前橋市に県内随一の名園があるというので訪れた。そこは前橋城跡にして群馬県庁の高層ビルが整然と建ち並ぶ官庁街に隣接する臨江閣およびその周辺の公園である。実はここは江戸時代には前橋城が存在していたが、すぐ西側に流れる「坂東一の川」利根川の浸食により、城主は埼玉の川越城に転封され、城郭そのものがなくなってしまった。現在見られるのは少々の土塁の跡ぐらいである。しかしその後前橋周辺の地場産業、生糸が隆盛を迎えたため、幕末最晩年に前橋城本丸御殿が築かれた。しかしその後に大政奉還されたため、城郭としての用途はなくなってしまった。

明治時代に入ってから新たに「群馬県」となった当地に、初代県令(県知事)として赴任したのが、吉田松陰の妹婿、()(とり)元彦であった。県令として奔走した彼が前橋に残したものの一つが、迎賓館として築いた明治期を代表する数寄屋造り建築、臨江閣である。そしてその西側に平成になってから整備された庭園が臨江閣の美しさをさらに引き立てる。特にその日は園内の桜が池に散り、幻想的な風景を楽しむことができた。

前橋駅から電車でしばらく行くと「関東と信越つなぐ」高崎市である。実は明治時代になってから高崎のほうが県都になる予定だったが、楫取県令によって一時的に前橋に県庁が置かれたまま今に至っている。高崎駅の構内には上野三碑のレプリカが置かれ、ユネスコ、すなわち世界に認められた郷土の誇りを声高に謳っているかのようだった。

高崎駅でローカル私鉄、上信鉄道に乗換え、吉井駅に向かった。そこでは三碑を見学するための専用のワゴン車が待っていた。よく晴れた日で、無料だったにもかかわらず乗客は私と三歳の息子だけ。ユネスコに認められたとはいえ、きわめて地味な石碑であるがためか、平日の見学者はこんなものなのかもしれない。(続)