浅草-祭りが最もよく似合う粋な庶民の町 ② | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

浅草-祭りが最もよく似合う粋な庶民の町 ②

ところで神輿とは読んで字の如く、神々の魂が乗り移った乗り物である。普段神社の境内にいる神道の神々も、我々人間と同じく時には外に出たがるが、不便なことに自力では散歩できないと考えられる。そのため神々の魂を依代(よりしろ)にうつし、それを神輿に乗せて皆で担ぎ、町内を見てもらうのである。まるで高齢者施設にいるおじいちゃん、おばあちゃんを、孫が車いすに乗せて散歩させるような感じでほほえましい。しかし面白いことに、この浅草神社に祭られる神々の名を知っている人は、神輿を担ぐ人たちさえ知らなかったりする。それではいったい熱狂に包まれつつ運ばれる神輿の主は何者なのか。

伝説によると推古天皇、すなわち聖徳太子の時代に飛鳥を遠く離れたこの坂東の草深い地を流れる隅田川で、桧前(ひのくま)という二人の漁師兄弟が釣りをしていると、網に黄金の観音像がかかった。それを地元の知識人、土師(はじ)真中(のまつ)()の所に持っていくと、彼は草庵を建てて観音像を祭った。これが浅草寺の起源であるという。そして桧前兄弟と土師氏の三者を祭るのが浅草寺境内の東北に位置する浅草神社であり、その大祭が三社祭である。

 ところで彼らの珍しい姓を調べてみると、桧前氏とは漢の遺臣が東に渡って朝鮮半島経由で渡来してきた東漢(やまとのあや)(うじ)の子孫という。そして土師氏も渡来系出雲人にして埴輪を製作した相撲名人だったことでも知られる、野見宿禰(のみのすくね)の子孫という。関東平野を切り開いたのがいずれも渡来人の子孫であること、そしてそれらはなぜか現在はあまり語られないことも興味深い。しかし思うにこの「外来文化」の仏教を「渡来人」たちが祭るというスタイルが後の浅草のオープンな心を形成したのかもしれない。

 例えば浅草の象徴(アイコン)というと雷門や仲見世といった伝統的なものをイメージするだろうが、一方で近代の東京において最も先進的に文明を取り入れてきたのも浅草だった。例えば明治時代には日本一の高さを誇った浅草十二階「凌雲閣(りょううんかく)」がそびえ立ち、大正時代には劇場や映画館が建ち並んだ。もちろん規模からすると鉄道の駅が建てられた新橋や、オフィス街となった丸の内などのほうが近代化の規模ははるかに大きいが、「文明開化」の名の下、官製の近代化によるものとは異なり、浅草が誇るのは「草の根近代化」であり、それを支えたのはこの町にある異文化、新文明にたいする懐の広さである。戦前に大衆劇場浅草木馬館で大ヒットしたのがドジョウをつかまえるパントマイム「安来節ドジョウすくい」であったのも浅草の「草の根」精神の現れである。

また昭和に入るや東洋初の地下鉄が走ったのも上野-浅草であり、盧溝橋事件に対して市ヶ谷の軍部が軍事行動を行った数日前に、浅草では東洋一の劇場、「国際劇場」が開館し、レビューの踊り子たちのはつらつとした嬌態が人々の人気を集めた。しかし「お上」が始めた戦争が拡大し、臨戦態勢には「不謹慎」とされた落語の一部の演目が軍部の検閲を受けて上映禁止とされた。すると浅草の噺家(はなしか)たちは本法寺に「はなし塚」を建てて落語の演目を供養した。それは「話の分かる」粋な江戸っ子による、「お上」へのせめてもの抵抗だった。

昭和20年には雨あられのような焼夷弾がここ浅草にも降り注いだが、桧前兄弟が釣りをしていた「春のうららの隅田川」も逃げまとう人々でごった返し、空襲の翌日は死体で溢れていたという。結局二天門と浅草神社本殿、伝法院を除くと江戸時代の息吹を残していた伝統的建造物は全て灰燼(かいじん)に帰し、浅草寺は罹災(りさい)(みん)の避難所となった。

戦後は噺家たちも復員し、萩本欽一や渥美清、ビートたけしら、東京のお笑い芸人もここから巣立っていった。しかしTV時代となった1960年代からはお笑いの中心はテレビ局のある山の手に移った。現在はスカイツリーが町を見下ろし、訪日客のほうが目立つ浅草だが、それでもなお浅草本来の「粋」が「活き活き」と「息」を吹き返すのが、三社祭である。