木曽路の宿場町三兄弟―妻籠、馬籠、奈良井宿 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

 

木曽路の宿場町三兄弟―妻籠、馬籠、奈良井宿
中山道は木曽路の宿場町を歩き、泊まった。馬籠宿、妻籠宿、奈良井宿等、重伝建に指定された宿場町がここまで連続している例を私は知らない。もともとこれらは信州=長野県であったが、2005年に行われた「平成の大合併」の際、全国でも唯一の「越県合併」によって馬籠宿は長野県から岐阜県になった。とはいえ、馬籠宿の生んだ二十世紀屈指の文豪、島崎藤村がその傑作「夜明け前」の冒頭に記した「木曽路はすべて山の中である」という言葉は県境の移動程度で変わることはない。深く濃い緑色が山一面を覆い、その中を巨岩の無造作に転がる木曽川が流れている。
 馬籠についたのは夜だった。予約していた民宿の前まで車をつけることができず、かなり離れた公共の駐車場に停めた。重伝建に指定されている地区は石畳であり、車の乗り入れができないのだ。夜8時の馬籠宿は真っ暗だった。あかりといえば各旅館の前の行灯ぐらいである。江戸時代もこのぐらいの暗さだったのだろう。真っ暗な中、行灯の薄暗い明かりを頼りに石畳の坂道を登ること10分ほどで、ついにお目当ての民宿についた。この馬籠茶屋という民宿は外国人バックパッカーの宿で、私以外は全て外国人客だった。
 翌朝町を散歩した。中山道の宿場町は、京都方面から江戸方面に向かってくる敵を防ぐため、数多くの宿場町で枡形というL字型に曲がった通路が確認できる。また、江戸方面に向かって登り坂になっていること自体が幕府方にとって防御しやすい砦であることのあらわれであろう。宿の筋向いにはこの町を舞台にした超長編小説「夜明け前」を顕彰した藤村記念館もある。この街道を舞台に、幕末から明治にかけて、尊王攘夷の水戸藩士、公武合体によって京から江戸幕府に嫁いだ和宮一行、戊辰戦争時の官軍など、その時その時歴史を塗り替えようとした人物がこの石畳の道を往来したと考えると感慨深い。
 馬籠から峠を越えて20分弱で妻籠宿についた。そこでガイドの方に案内していただいた。ここは1976年、重伝建第1号に指定されとところの一つで、地元の人たちが「売らない、貸さない、壊さない」をモットーに街づくりに精魂傾けてきたことを強調された。しかもそれは戦時中に疎開してきた東京の知識人たちがすでにその当時からここの価値を見出し、地元の人々に保存を呼びかけてきたという長い歴史を持っている。ここでは特に本陣、すなわち参勤交代などの大名行列が宿泊する際の、大名専用旅館が復元されており、また明治天皇も休憩したという脇本陣という明治初期の高級旅館も見学できる。
 これらの宿場町に比べると知名度的にいささか劣るが、奈良井宿のほうが宿場町らしい雰囲気や1キロにわたって連なる家々の数ではこれらをはるかに上回るように思える。すみずみまで当てもなく歩くだけでも30分近くかかるというと、その規模が推し量れるだろう。さすが江戸時代は「奈良井千軒」といわれるほどの繁栄を謳歌しただけある。個人的には三つの宿場町の中で最も気に入った宿場町だ。
気に入ったのは規模だけでなく、馬籠や妻籠のように観光化されず、飾り気のない素朴さがよい。通路には比較的自由に住民の車が走っているし、自宅前の長椅子で、ランニングを着たおじさんがタバコを吸いながらくつろいでいたり、民家からはテレビの音が聞こえてきたり、夕方になると夕餉の匂いがしてきたりする。本陣が復元されていたり、文豪の記念館があったりする馬籠・妻籠が多少舞台セット的なところがあるならば、こちらは生活の場という感が強い。さらには馬籠・妻籠の建物がほとんど旅館や土産物、和風喫茶といった観光関連であるのに対し、奈良井では民家の方が多く、それがまた魅力なのだ。最低限にしか着飾らない宿場町、奈良井は、まさに穴場的なスポットといえよう。